相模川に架けられた鎌倉時代の橋
「旧相模川橋脚」が存在するのは、旧東海道を踏襲する国道一号線のすぐ側だ。東海道は江戸時代初頭に整備された江戸と京を結ぶ大動脈であるが、それより昔の鎌倉時代にも幕府が置かれていた鎌倉へと通じる街道として重要視されていた。
鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡』によると、建久9年(1198年)に源頼朝の重臣であった稲毛重成(いなげしげなり)が亡き妻の供養のため相模川に橋を架けたとあり、これらの橋脚はその橋のものだと考えられている。
なお源頼朝は相模川の橋が完成した落成供養の際に意識を失って落馬し、その後に死去したとされる。去年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも印象深かったシーンだ。
鎌倉時代の橋はその後に失われたのだが、橋脚の部分だけは腐らず地中に残っていた。そして大正12年(1923年)に発生した関東大震災とその余震による液状化現象によって埋もれていた橋脚が浮上し、地上に姿を現したのだ。
こうして再び日の目を浴びた「旧相模川橋脚」であるが、鎌倉時代の橋脚という歴史的な価値により大正15年(1926年)に国の史跡に指定され、また関東大震災による液状化現象の様相を示すものとして平成25年(2013年)には国の天然記念物にも指定された。
水を張った池のようになっているのは、発見時に橋脚を守ろうと地元の方々が築いた保存池を再現したものだ。橋脚は長らくこのような池の中で保存されていたのだが、水面から露出した部分の腐食が確認されたことからコンクリートと充填材で保護し地下保存となった。
その整備において、実物の上にかつての保存池を再現したことで、文化財保護の足跡をたどることができるのもこの史跡の特徴である。
ところで、「旧相模川橋脚」は現在の相模川から1.2kmほど東に離れた場所に位置しており、側を流れているのも小出川だ。なのになぜ”相模川”橋脚なのかと疑問に思う方がいるかもしれない。
「旧相模川橋脚」は現在における小出川のすぐ側にある
現代のように大規模な治水工事ができなかった時代、河川はたびたび氾濫し、時代によって流路を変えてきた。特に下流域の低地では大きく蛇行し、分岐や合流を繰り返すことも少なくなかった。
この模型の緑色の部分はかつて河道であった範囲を示しており、鎌倉時代には現在の流路の東側にも相模川の一部が流れていたと推測することができる。「旧相模川橋脚」があるのも旧河道の上だ。
要するに「旧相模川橋脚」は、かつて複数に分岐していた相模川の流路のひとつを渡る橋だったと考えられるのだ。なるほどなぁ。
国道一号線沿いにひっそりと残る史跡ながら、中世まで遡る橋の遺構は全国的にも例が少なく非常に貴重。地震によって地表に現れた遺跡としても非常に貴重と、貴重尽くしの他に類を見ない遺跡である。
関東大震災から100年ということもあり、これを機にさらに注目されてほしい、個人的にイチオシの史跡だ。