持ち手のないカバンは大人の証
持ち手のないバッグといえば父のカバンである。小学生ながらに意味がわからなかった。
直立二足歩行をする人類のアドバンテージとは両手がいつでも自由に使えることである。なのでカバンにも持ち手が存在する。そこを放棄した父。この人は何を考えているのだろうかと思ったことだろう。
そんな意味のわからないものをなぜ今持たなければならないのか。話は大学を出て就職活動に失敗したからだ。
浮ついた気持ちで有名な会社を落ちた後、残っていたシステム系の会社を受けているとき、何をやっているのか会社の説明を聞いてもさっぱりわからなくなって終了を宣言した。
せめてやりたいことをやっておこうと、当時おもしろそうな職業として持ち上げられていた放送作家のセミナー目当てで上京してきた。
セミナーで拾い上げられることもなく終了し、アルバイト雑誌だったかで放送作家の募集があり応募をしたところフリーのディレクターを名乗る個人が現れたのだった。
彼はカーディガンを肩にかけ、薄い色のサングラスをかけて持ち手のないバッグを持っていた。2000年代にバブル期の業界人らしい格好できたのだ。
ここで私は実家の父以来、持ち手のないバッグと再開することになる。採用する人と父、両者に共通するものとは「父権的なもの」であり謎に包まれた「大人」であった。
その後放送作家はあきらめて、WEBでやりたいことを書いて今に至る。
本当の大人になるときが来た
流行はリバイバルする。大学生あたりの流行でクラッチバッグを目にするようになった。また持ち手のないカバンが目の前に現れた。
記事を書くことで自己実現もしたし、父にもなった。あの時志した放送作家という道も『シャキーン!』というNHKEテレの番組に構成で参加するようになった。
そろそろあのカバンを持つときが来たのではないだろうか。いや、本当なのか? あんな持ちにくそうなものを!?
もしかしたらその持ちにくさこそが「大人」なんだろうか。頭を下げたり白を黒と言ったり、合理性から離れたこの持ちにくさこそが「大人」の象徴なのかもしれない。ならここらで一つクラッチバッグを持つ練習をしておくべきではないか。
それは私が本当の大人になるための練習である。
持ち手のないカバンを持つ練習とはなにか。最強に持ちにくそうなカバンを作れば、良い練習になるのではないか。
そう考えてつるつるに滑るクラッチバッグを作ることにした。
摩擦係数の低い素材といえば、フッ素樹脂加工されたものだそうだ。そこでテフロンシートというフッ素樹脂加工されたつるつるのシートを買った。実際に触るとつるつるしているが、手汗で湿り気のある手にはぺたぺたとした感触もある。
そこで手汗防止用に手袋とさらに潤滑剤としてのシリコンスプレーも追加する。これで考えられる最大のつるつるのバッグが出来上がるはずだ。
さあこれで大人中の大人に、と思ったが、このつるつるバッグを持っていきなり出かけるのは、免許取り立ての18歳がF1で高速を走るようなものではないか。最初は初心者マークをつけた乗りやすいヴィッツやマーチあたりで田舎道に出たい。
そこで一転して「めちゃくちゃ滑りにくい」クラッチバッグを作ることになった。
家具の滑り止めでできたクラッチバッグを持つのはゴムグリップが全面に貼られた軍手である。二段構えの滑り止めで、こんなにもジャムの蓋を開けられそうな男がいるのだろうか、という見た目である。
持ち手など要らぬ
そしてクラッチバッグを持つ。高笑いというものを出すとしたら今ではないだろうか。マンガの中の王のように「ふはははは」と笑いだしてしまいそうになった。続く台詞は「持ち手など要らぬわ」である。
「水を解放してやろう」「裏切り者に死を」このような台詞がポンポンと飛び出す。やはり持ち手のないカバンとは権力の象徴なのである。
滑り止めでできたクラッチバッグは手に吸い付くような感触であった。なるほど、これなら、と思えるような安心感。大学生でもクラッチバッグを持つわけである。
飛んだり跳ねたりも可能。『雨に唄えば』でジーン・ケリーが持っていたカバンがたしかこの滑り止めカバンと軍手である。
いよいよ最高の持ちにくさを
さていよいよ最強に持ちにくいつるつるのクラッチバッグである。廃棄予定のノートPCであるが、このような高価なものを絶対に落としたくない。
テフロンシートとシリコンスプレーの力は相当なものであった。慎重に持てば落としはしないものの、少しでも意識が抜ければどこかに飛んでいってしまいそうなものであった。
持ち手がないつるつるのものをどうやって持つのかというとそれは抱えることになる。
抱えるとはなんだ。抱えるの後につづく動詞は「抱えて逃げる」、どろぼうである。権力を持った大人からいつのまにかどろぼうに近くなってしまったのだ。
さらに難度を上げる
つるつるのクラッチバッグはある程度の慎重さが必要なものの持てなくはない。これを使いこなせるようになってこその大人である。
そこで私達が向かったのは公園の遊具である。アスレチックとまではいかないものの、足場の不安定な場所をクラッチバッグを持ってクリアしてこその大人なのではないか。
クラッチバッグを持つ日は近い
撮影を担当した編集の安藤さんは「一体いつまでおれたちこういうことやってるんですかね」とキッズ・リターンみたいなことを言っていた。
世界中で父権的なものが解体されつつある今、父なる権力は必要ないのかもしれない。だが、そこを引き受けないとなると私達はずっと公園の遊具から抜け出せないのではないだろうかという一抹の不安がある。
「今日は取材があって」と言ってもその実、私達は公園の遊具にいる。「日曜なのに仕事をした」と言っても私達は公園の遊具にいる。
その後、放送作家として『シャキーン!』というEテレの番組に参加することになった。子供番組なのに知的なユーモアがありあの頃の夢が叶ったように思えた。持ち手のないかばんは持ってもよいはずなのだ。だが私はあの遊具から滑り落ちてしまった。
そして『シャキーン!』は14年の時を経て今年の春に終わってしまう。実用性や数字に現れない文化的な番組は見直されたということなんだろうか。
せめてここはと思うが、私達は未だ公園の遊具から抜け出せないでいる。