あなたの街にもあるかも
大学時代は京都に住んでいたため、東京に戻ってからあんまり古いものがないなあと思っていた時期がある。
でも、目立たなくても古いものはいたるところにあるのだ。
今回の横穴墓は、それを再認識するきっかけになったと思う。
目立たない史跡の中では、けっこうインパクトがあっておすすめですよ。
東京都三鷹市に大沢という地域がある。
綺麗な湧水が流れる、自然豊かな場所だ。
ここに一般的な古墳とはまた違う古代人の墓がある。
7世紀頃につくられた、出山横穴墓群(でやまおうけつぼぐん)8号墓である。
この妙に生々しくてドキドキするお墓へ迫ってみたい。
お墓の話へ入る前に、この大沢が魅力的な場所すぎるのですこしだけ紹介したい。
「東京じゃないみたい!」という自然豊かな場所はなんだかんだ結構あるものだが、新宿からほど近いここ大沢もそのひとつだと思う。
三鷹とはいえ駅からはかなり離れており、調布飛行場や多磨霊園、国立天文台、国際基督教大学(ICU)などに囲まれた緑豊かな地域だ。
ハケとは国分寺崖線のことで、10万年以上をかけて多摩川が武蔵野台地を削り取ってできた河岸段丘だ。20mくらいの高さの崖が立川から世田谷方面にかけて続いている。
国分寺が水源かつ、二子玉川で多摩川に合流するという短い川だが、それゆえ都市河川としてはあるまじき透明度なのだ。
豊かな水資源があるから、旧石器時代から人が連綿と住み続けている場所でもある。
等々力渓谷や高尾山などと違い、市外からたくさん人がやってくる、という感じでもない。
土日は地元の子供達が川遊びをしている、そんな場所だ。
ここにひっそりと古代人の墓があるのだ。
墓は大沢の里という公園の中にある。
このこんもりした森がハケ(国分寺崖線)だ。このハケの中腹に墓が眠っているらしい。
奥へと入ってみよう。
ひんやりとした空気の中、その生々しさにドキッとする。
実際には転がっているのではなく、親族と思われる4体の人骨(現在はレプリカなので安心して欲しい)が亡くなるごとに追葬されたという。
40代男性・30代男性・20代女性・8歳男児という構成で、兄妹や親子関係が推測されている。
さっきも、大沢の里は同じ歳くらいの子を連れたファミリー層が遊んでいたな。
1993年の発掘調査で見つかったこの墓は、入口部の精巧な石積み構造が注目され東京都史跡に指定、その後永久保存するために温湿度を管理しながら公開しているそうだ。
この平瓶(へいべい、須恵器の一種)は7世紀前半に静岡県西部(湖西窯)でつくられたものだそうで、墓はその後の7世紀後半~末にかけて断続的に使われたものではないかと言われている。
7世紀といえば、聖徳太子(574-622)や天智天皇(626-672)と同時代に生きた人たちだ。
この南武蔵の片田舎とはいえ、あの激動の時代を生きた人骨(のレプリカ)を目の当たりにすると、俄然古代ロマンがわいてくる。
やばい、今通ってきた道じゃないか。
発掘されたものもあれば、地中レーダー調査でわかっているものもある。また、横穴墓とは断定できないがレーダーに反応した空洞が他に三か所あるらしい。
つまり、今も本物の古代の人骨がこの崖の斜面に埋まっているのかもしれないのだ。
これはドキドキする。想像するだけで楽しいぞ。
1884年の『武蔵野叢誌』の記事によると、当時の村人が横穴墓を発見、穴佛としてここ龍源寺で供養されたそうだ。それが「白骨様」の名で評判になり、拝もうとする人々で縁日のような騒ぎになったという。
右側の供養塔を整備する際に、近隣の防空壕から見つかった人骨もあわせて供養したそうだ。日本仏教の懐の深さを感じるエピソードだ。
なお、この龍源寺は新選組の近藤勇の墓があることでも有名だが、この穴佛と向かい合うようにしてあったのが印象的だった。
三鷹市役所の隣の三鷹市教育センターには、「みたかえる」というちょっとした文化財展示室がある。
ここで知った横穴墓は、想像していたよりもずっとスケールの大きいものだった。
小さな展示スペース内にいろんな時代の出土品を展示しているため、横穴墓についての解説はそんなに多くない。だが、面白い展示や貴重な調査資料を閲覧することができる。
まず、三鷹では出山横穴墓群だけでなく、なんと7群80基の横穴墓が見つかっているそうだ。
そのうちの羽根沢台横穴墓群(よく食べに行くラーメン屋の近くだった)から出土した人骨は、国立科学博物館にて古墳時代の人骨としては日本初のゲノム解析が行われた。
結果、見つかった3体の人骨は親子・異父兄弟で、それぞれ渡来系と縄文系のDNAを引き継いでおり現代人と同じ程度には混血が進んでいたそうだ。
父は20歳前後で亡くなっており、身長166cmで細身。子は40歳前後で亡くなっており、160cmで頑丈な骨格をしていたそうだ。思ったより大きい。
日本人の平均身長のピークは近代化する前は古墳時代がピークなのだ。
また、子は骨の変形から、馬に乗って弓矢をひいていた可能性があるそうだ。
なお、横穴墓(おうけつぼ)とは5世紀後半から奈良・平安時代くらいまで、九州から東北地方にかけて広く作られた墓の形態だ。多摩では6~7世紀頃が最盛期となる。
権力者の墓である古墳と違い、墳丘は作らず崖などを横に掘って作られる。家族で葬られており、被葬者は一般庶民よりやや高位の人物と考えられている(今でいうアッパーミドルクラスだろうか)。
もっとも有名なものは埼玉の吉見百穴だ。あちらは岩盤がかたいため、縦に何段も墓が造られたのに対し、東京の横穴墓は東京パミス層という地層のやや上部に横一列に造られたらしい。
東京パミス層付近の標高が年間の最高地下水位となっているため、地下水の及ばない高さの指標として選ばれたのでないかと推測されている。
なお、東京では特に多摩川・鶴見川流域に多く、その周辺地域には見つかっているだけで約250群の横穴墓群があるそうだ。
分布図をみると本当にそこら中に墓がある(あった)ようだ。
あなたの家の近くの坂にももしかしたら……!
ここからは、再び大沢地域を歩いてみよう。
多数の墓を想像しながら…。
筆者はこの近くに住んでいるため、よく散歩で通る道なのだ。
そんな身近な場所に古代の墓が埋もれていたとは。古代史好きとしては非常にワクワクしてくる。
御塔坂はその名の通り、深大寺という古刹の近く。
深大寺は7世紀後半~末につくられた国宝の仏像があるお寺としても有名で、なにやら関連性があるのかもしれない。
(なお、どの横穴墓群も200~300mという範囲に広がっており、具体的な位置まではわからない。地形のわかりやすい場所を写しているだけなので民家等は無関係であることに注意)
まだ紹介していなかったが、さきほどの文化財展示室で特に力の入った展示があったのだ。
国立天文台構内で発見された、全国に数例しかないという珍しい「上円下方墳」である。
これが、横穴墓群と同時代の首長の墓だと推測されているそうだ。
下段の方形部分が約30m、上段の円形部分が直径約18m。
全国に15万基以上あるといわれる古墳の中で数例しか見つかっていない、非常にめずらしい上円下方墳である。
埋葬施設である石室は三室構造となっており、江戸時代のお城の石垣に負けないような精巧な切石積みでできている。
古墳がつくられたのも同じ7世紀後半と予想されている。
ここには、多数の横穴墓群をまとめあげた地域の首長の存在が眠っている可能性が高い。
古墳といえば、一般的にイメージされるのは前方後円墳だ。
でも、この天文台構内古墳は上円下方墳。
時代も違う。
そこらへんの流れを自分なりに調べたので、ざっくりと紹介したい。
日本最古の前方後円墳といえば、3世紀半ば・250年頃(今も諸説あるけど)につくられた奈良の箸墓古墳だと言われている。
『東京の古墳を考える』によると、関東では4世紀初頭に前方後方墳がつくられはじめ、それが徐々に前方後円墳へかわる。
(なお、最近は纏向型前方後円墳という箸墓古墳よりも古い形式の墳丘墓を古墳とみなし、関東では3世紀半ばに作られたとみられる千葉県の神門5号墳を最古とする見方もある)
4世紀の武蔵(埼玉・東京・横浜あたりを含める地域)では、多摩川流域に100m級の前方後円墳がいくつかつくられるため、ここらへんに地域の有力者がいたと推測されている。
では、世界遺産になった百舌鳥・古市古墳群など、畿内を中心に巨大古墳がつくられる5世紀はどうか。むしろ武蔵にあまり大きな古墳はつくられず、群馬県に東日本最大210mの大田天神山古墳がつくられる。関東の豪族が力を合わせてつくったと考えられ、当時の階層意識や力関係が読み取れるそうだ。
5世紀末から6世紀にかけて、今度は埼玉に100m級の前方後円墳が複数つくられはじめる。これが有名な埼玉古墳群だ。
武蔵の勢力図が入れ替わったのではないかといわれている。
さらに、7世紀に入ると前方後円墳の時代は終わりをつげ、小規模な円墳や方墳などが中心の古墳時代終末期となる。
この時代で特筆すべきは、府中の武蔵府中熊野神社古墳である。
同時期の天文台構内古墳とよく似た構造を持ち、さらに立派な上円下方墳だ。上円下方墳は特別な形式で、被葬者には畿内との強いパイプを持つ地域の支配者がイメージされる。また、全国に数例しかない上円下方墳が府中と三鷹という近さであるということは、そのつながりの深さも想像できる。
そして、8世紀に入って置かれる武蔵国府(今でいう県庁のようなもの)はこの府中にあるのだ。
彼らが亡くなったのは、そんな武蔵国府ができる時代の前夜。
国際的には朝鮮半島があった高句麗・百済が滅ぼされ、日本も663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗するなど、激動の時代だ。
朝鮮半島から亡命してきた多くの渡来人が武蔵にも入植してくる。
朝廷が中央集権化をすすめる中で、ここ武蔵の首長もダイナミックに活躍していたのかもしれない。
同時代の横穴墓の主たちは平和な人生を送ったのだろうか。当時はネットがなかったから、激動の時代をリアルタイムで知ることはできたのか、できなかったのか。
しかし確実に、大和から離れたここ武蔵の片田舎にも、その波は押し寄せてきていたのであろう。
…とまあ、そーんなことを考えると散歩も楽しくなる。
大学時代は京都に住んでいたため、東京に戻ってからあんまり古いものがないなあと思っていた時期がある。
でも、目立たなくても古いものはいたるところにあるのだ。
今回の横穴墓は、それを再認識するきっかけになったと思う。
目立たない史跡の中では、けっこうインパクトがあっておすすめですよ。
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