「中途半端な古さ」といえどもすさまじい変貌ぶり。
今回、家にたまたまあった中途半端な古さの古地図のうち、昭和44年の江東区住宅地図と、昭和30年代~50年時代の東京都区分地図をたよりに江東区を散歩してみたいと思う。 まずはさっそく区分地図で江東区を眺めてみる。
この地図は昭和51年度のものなので、今から約34年ほど前の地図だ。潮見の上に「第八埋立地」なんて書いてあるところが時代を感じさせる。
しかし、こうやって江東区全体をながめてみると、西側は町のひとつひとつが細かく設定されているのに対し、東側は北から亀戸、大島、砂町(北砂、東砂、南砂、新砂)と大きく三つほどしか町がない。 江戸時代から下町として市街地が形成されていた西側の旧深川区地域に対し、農村地帯だった東側の南葛飾郡地域の差が、住所からも読み取れて面白い。
ところで、この江東区の地図でぼくが気になるところは次の2ヶ所だ。
1)豊洲、塩浜周辺の貨物線跡はどうなっているのか?
今や超高層マンションが立ち並ぶ小ぎれいな町へと変貌してしまった豊洲だけど、34年前は貨物列車が行き交う工業地帯だった。この町を縦横に走っていた貨物線・越中島線の線路の痕跡を探してみたい。
2)木場、平野周辺の貯木場はどうなっているのか?
地図を見ると、木場という地名の由来にもなった貯木場がまだこのころには沢山あった。木場の貯木場は現在は公園になったけれど、それ以外の貯木場は今どうなっているのか?
以上の点を念頭に置きながら、中途半端な古地図をたよりに江東区を散歩してみる。
未だに残る鉄橋からスタート
最初に向かったのは豊洲の春海橋だ。
春海橋は、中央区と江東区の境界にあり、きれいな高層ビルが立ち並ぶ中に、赤茶色に錆びた古い鉄橋がポツンと未だに撤去されずに残してある。 この春海橋を廃線をスタート地点にして散歩を始める。
越中島線が廃止されたのは1989年なので、生まれた子供が大学卒業して就職するかしないかぐらいのあいだここにある。昔をしのぶよすがとして、ぜひこのまま保存して欲しいと思う。
細切れに残る越中島線跡
春海橋からさらに、石川島播磨重工の工場内にあったと思われる貨物線をたどってみる。
1、IHIビル前交差点付近
昔は踏切があったと思われるIHI本社前の交差点には、残念ながら線路の痕跡は全くない。
IHIのビルを少し裏手にまわったところに車輪が落ちていて「すわ貨物線の痕跡か!」と、一人で勝手に色めき立ったが、よく調べたらIHIの鉄道車両作ってる部門がこのビルに入っているから置いてあるだけなのかもしれない。
2、豊洲三丁目公園付近
豊洲三丁目公園横には線路がモニュメントとして残してある。ただ、周囲には何の解説もないので、知らない人は気づかないか、気づいても中途半端なデザインのプロムナードぐらいにしか見えない。
このモニュメントからさらに先、小学校の横の道を抜けると運河に突き当たる。その運河には越中島線の橋脚が残っている。
カーブの名残が道路に
豊洲周辺の線路跡をたどっていて気づいたのは、線路のカーブが道としてそのまま残ってる箇所がいくつかあったということだ。
たとえば、豊洲ららぽーと横のカーブは、越中島線のカーブがそのまま残っている。
さきほどの橋脚だけ残ってた鉄橋から真っ直ぐ伸びてきた線路が、このカーブで大きく南に曲がっていたのだけど、そのカーブがそのまま公園への通路として残っているのだ。
そしてさらにその先、豊洲五丁目付近のビルとマンションの間にも、線路のカーブの痕跡が残っている。
昭和44年当時と変わらない一画を発見
住宅地図を片手に豊洲を歩き回っていると、ある場所に目が止まった。
昭和44年から変わらずここにある店だ。となりの理髪店も、写真には写ってないけど手前にあるガソリンスタンドもそのままだ。
なんだかちょっと嬉しくなって、思わず入って話をきいてしまった。 いかにも昭和の中華料理屋といった雰囲気の店内。ご家族で切り盛りされているようだ。
--すみません。昔の地図をたどってこのへんを取材してるんですが……、こちらのお店はいつごろから営業されてますか?
「んー、えーと昭和42年からかなあ……」
昭和42年といえばこの地図が昭和44年なので開店2年目のころになる。
--やはりこのあたりはずいぶんかわりましたか?
「変わったねー、むかしは工場しかなくてなんにもなかったもん(地図を)ちょっと見せて、あー懐かしいねー、たしかに昔はこんなふうに貨物線があったなあ、このへん(現在の豊洲センタービル)は団地だったんだよね」
--もしかして平屋建ての団地?
「そう平屋の団地でね。道路も舗装されて無くて土のままだったよ。そういえば石川島播磨の敷地内になぜか高橋さんっていうおばあさんが独りで住んでてね、一軒家に、よく出前持って行ったよ」
--工場の中にですか?
「うん、工場の中に。守衛さんに断って入って行ったんだ。なんで工場の中に一軒家があったのか今考えると不思議な家だったなあ……」
なんとも、とりとめのない昔話だ。でも、こんな昔話を聞くのは大好きだ。
息子さんと奥様も加わって「今のIHIがあるあたりに戦車が戦後しばらく置いてあって中に入って遊んでた」とか「団地の近くにみかんしか売ってない八百屋があって、ねだって買ってもらってた」など、ゆるい昔話がどんどん出てきた。
中途半端に古い古地図には、そこに住む人の記憶のひきだしをこじ開ける力があるようだ。
塩浜の廃線跡は駐車場になっている
ところで、豊洲の隣。塩浜にも越中島線の痕跡がある。これもぜひ確認しておきたい。朝凪橋を渡って塩浜へ向かう。地図を確認すると、豊洲から延びた線路は、現在の越中島貨物駅のあるあたりまで真っ直ぐ伸びている。
なお、この地図で「越中島」となっているのは、現在の「越中島貨物駅」のことで、京葉線にある「越中島駅」とは別物だ。
塩浜は豊洲と違い、まだ倉庫や工場などが多い。むかし貨物線の線路だった箇所は現在、線路の跡に沿うかたちで細長い駐車場になっている。もっと向こうはどうなっているのか?
②部分が、旧越中島駅の廃止された部分だ。すでに使われなくなった線路とホームがそのまま放置されている。
以上、2ページにわたって豊洲から塩浜までの貨物線の様子をたどってみた。
廃線跡を巡るのはワクワクするものだが、絵面は地味でしぶい。
地味でしぶいのはこれで終わりではなく、次の2ページでは貯木場の痕跡をめぐるという、輪をかけてしぶすぎる散歩が続きます。
亀井橋の痕跡をさがす
木場周辺の貯木場跡をめぐる散歩。まず最初に訪れたのは、木場三丁目。現在、深川消防署と深川警察署があるあたりだ。
住宅地図によると「亀居橋」という橋があったらしいが、どこにあるのかわからない。
住宅地図をクルクルまわしながら辺りを歩いていると、突然視野がひらけた。
「あ、これが川だったのか!」 現在「木場親水公園」となっているところがそのまま川だったのだ。元亀居橋だった歩道から一段低い場所に水遊び用のプールが設置してある。
いったん「川だった」とわかると、なんでもない公園の壁も川の護岸っぽく見えてくるので不思議だ。
微妙な高低差は橋の痕跡?
そしてもう一箇所、木場親水公園からすこし住宅地の中に入ったところに結構大きな貯木場がある。この貯木場は今どうなっているのか?
静かな住宅街の中を抜けてたどり着くと、ちょっと大きい貯木場は公園とURのマンションになっていた。
Googleの航空写真でみると、貯木場がそのままマンションの敷地になっているようだ。 そして貯木場と平久川を結ぶ水路に架かっていた「鉄道堀橋」という不思議な名前の橋がちょうどこのあたりだ。
さっきの亀居橋もそうだったのだけど、橋の跡というのは若干盛り上がってることが多い。 上の写真ではちょっと分かりにくいかもしれないけど、ちょうど橋のあった部分が盛り上がっている。
おそらく、川を埋め立てたとき、橋の高さがそのまま残ったのがこの微妙な高低差に現れているのだと思う。一応、イラストで図解してみた。
道を歩いていて微妙な高低差が気になったら、それは橋の跡かもしれない。といっても高低差を気にしながら歩くことはあまり無いかもしれないけれど。
深川平野町三丁目付近の貯木場は?
古地図の木場周辺の貯木場を眺めていて気になったのは、深川平野町三丁目(現在の平野三丁目)周辺にあった貯木場だ。木場周辺の貯木場は全て公園となっているけれど、現在も住宅地の平野三丁目周辺にあった貯木場は今どんな感じなのか?行って確かめてみた。
昔の水門が残っていた!
古地図の住宅地図では「吉岡橋」となっている場所にやってきた。
当時の水路は現在「福富川公園」として整備されており、そしてその公園の入口として吉岡水門が残されていた。
水路と貯木場をつなぐ痕跡
さて、上の写真をよく見ていただきたい。何の変哲もないコンクリートの壁。じつはこの部分、下の地図でいうところの赤い矢印の部分なのだ。
両脇のコンクリートに比べ、真ん中のコンクリートは色が新しい。
詳しくないので断言はできないけれど、場所はぴったりなので、おそらくこれは左の貯木場と水路をつなぐ場所の痕跡ではないか。
こういった明らかな痕跡は、かなり興奮してしまう。
撮影を手伝ってもらってた妻に「ほら、あそこだけコンクリートが新しい!水路の跡だ!」と教えたら「へー」とだけ言った。
興味あるひととないひとの温度差! と思った。
さらに橋と水路の痕跡を見つける
深川第六中学校の南側にある貯木場も結構でかい、この貯木場も確認しておきたい。
貯木場や水路後が、マンションや公園として利用されることが多い中、駐車場は珍しいかもしれない。
地図には結構デカデカと「西宝橋」と書いてあるので、なにか橋の痕跡はないかさがしてみたけれども特に何も無い。
ただ、先ほど発見した「橋のあった場所は道がちょっと盛り上がってることが多い」ということに気をつけて道路を見てみると、やはり西宝橋のあった場所は道路が少し盛り上がってる。
どうだろう、モコッと道路が少し高くなってるのが見て取れないだろうか?
ちなみに、この貯木場から川に接続する水路部分にはURのマンションが建っていた。
さっきの鉄道堀にもマンションが建っていたけど、貯木場跡にはなぜかマンションが建ちがちだ。
貯木場は子供の遊び場だったらしい
平野周辺を地図で確かめながら回っていると、昭和44年の住宅地図に掲載されている酒屋さんを見つけた。ちょうど営業されていたので、ご主人にお話を伺った。
--すみません、このへんを取材してるんですが……こちらのお店はいつごろから営業されてるんでしょう?
「戦前からですね」
--このへんに貯木場が結構あったと思うんですが、覚えておいでですか?
「貯木場? あったねー(地図をみて)そうだねー、この貯木場はこの製材屋さんの貯木場だし、こっちの貯木場はこの店の貯木場だったような気がするな……」
さすが、地元の人だ。住宅地図をみると次々と記憶が蘇ってくるらしい。貯木場ごとに所有者が違うというのも新たな発見だ。
ご主人は子供の頃、貯木場で魚釣りをしたり、木に乗ったりしてよく遊んだという。
--木に乗ったんですか?
「今考えたら危ないけどね、子供は乗っちゃうから。浮いてる木の上を歩いたりするんだけど、中には足を乗っけるとなぜかズボって沈む木があったりしてね、 落ちて死んじゃった子もいたらしいよ」
風雲たけし城の竜神池を思い出した。たしかにあんなの小学生がやったら危ない。
--死んだ子もですか……命がけですね
「工場に勝手に入ったり、製材所に積んである木材によじ登ったり、とにかく今考えると本当に危ないよね」
--ところで、このへんにあった貯木場が埋め立てられ始められたのっていつごろですか?
「埋め立て? んー、覚えてないなぁ、中学生になると両国とか浅草に行って遊んじゃうから……わかんないなあ」
貯木場について考えるのは小学生までということか。
中途半端な古さは人の記憶を呼び覚ます
さすが中途半端な古さの古地図。廃線や水路の位置が正確で、しかもその痕跡が今でも結構残っているのは、散歩をしててかなり興奮した。鼻息荒く散歩する、エクストリーム散歩だ。いつか同好の士を集めて江東区貯木場ツアーをしたい。
それから、中途半端な古さの地図は、その中途半端な古さの頃をしっている人がまだ沢山いて、そういう人に地図を見てもらって、思い出したとりとめのない昔話をしてもらうのも面白いということに気づいた。
工場の中に住んでたおばあさんの話も、ご主人が思い出してくれなければ膨大な歴史の中に埋もれて消えてしまっていたかもしれない。 そう思うと、そんな小さな思い出話や消えてしまいそうな記憶をもっとたくさん聞きたいと思った。