出発
この遠足は通称、「飛鳥山遠足」と呼ばれている。
文字通り、桜の名所である王子・飛鳥山までの校外学習で、上野不忍池から片道6キロの道のりを歩く遠足だったからである。
飛鳥山遠足は1896年の11月に、東京高等師範学校附属第2小学校(現・筑波大学附属小学校)の教員・樋口勘次郎(ひぐち・かんじろう)先生の元で行われた。生徒は小学校2年生。大変そう。
記録には樋口先生お手製のルートマップも書かれており、それを見れば現在でも遠足の行程をたどることができる。さらにそれだけでなく、記録には「学習目標」という形で、遠足の途上で彼らが何をしたのかが、ずらっとリストアップされている。このリストによって遠足の再現がすごくしやすい。ありがとう、樋口先生。
で、せっかく遠足をやるんだから、「しおり」がないと雰囲気が出ないだろう。というわけでさっそく作ってみた。かなり遠足っぽい感じになって嬉しい。
実際の遠足は11月に行われたのだが、さすがに11ヶ月も待つわけにはいかず、思い立ったが吉日で正月早々やることにした。
そんなわけで令和2年早々、明治26年の遠足を再現する準備は完全に整ったのだ。細かいことは遠足のルートをたどりながら説明することにして、早速出発しよう。
飛鳥山遠足の出発地点は上野、不忍池の真ん中に浮かぶ不忍弁天の前からだ。
不忍池:不忍池を観察しよう
さて、ここで遠足の学習目標を見てみよう。しおりに収録した現代語訳(訳:私)でご覧いただきたい。不忍池周辺では下記のことをするらしい。
・地図を持って、その見方を学ぼう
・不忍池を観察しよう
いきなりの学校感。ちなみに、「地図」と書いてあるのは、樋口先生が遠足の前日に手作りした地図のことだ。
記録によれば、この地図を作って「四〇余枚を蒟蒻板(昔の手刷り印刷のこと)で刷れり」とのこと。樋口先生もしおりを作っていたんじゃないか。一気に親近感が増す。この地図と現実の位置を比較して、地図の見方を学ぼうというわけだ。
まずはミッション通り、不忍池を観察する。
冬ということもあって、池の植物は多くが枯れていた。春に咲き誇る準備をしているのだろう。不忍池といえば池一面に咲く蓮の花が有名で、遠足当日も枯れたハスの実が池に浮いていた。
130年前に遠足が行われた11月も、すでに多くの植物は枯れていただろうし、ことによれば枯れたハスの実が池の上に浮いていたかもしれない。大体130年前の子供達と同じ風景を見ているのだ。そう考えるなんとも感慨深い。
せっかく不忍弁天に来たのだから、と遠足の安全を祈願してお参りもしておく。
お参りはコースにないが、ちょっとした寄り道だ。というか、記録に書いてないだけで、樋口先生一行もお参りしたんじゃないか。不忍弁天は130年前からずっとここにあったわけだし、遠足の始まりにお寺があったらお参りの一つでもしたくなるだろう。
上野公園:東照宮と藝大の位置を地図と見比べる
さて、歩き始めよう。
遠足遠足と言いつつも、まだ歩き始めていないのだ。
次なる学習目標はこちら。
上野の東照宮、博物館、音楽学校の位置を、地図と比べよう
上野公園の施設を地図の位置と比較するのだ。樋口先生が書いた手書きの地図で、上野公園は以下のように書かれている。
そして、現在の上野公園の地図が以下の通り。
こう見ると驚くのは、上野公園、あまり変わっていない、ということだ。樋口の地図で不忍池の隣に「動物えん」と書かれているのは、現在の「恩賜上野動物園」のことだし、その隣にある「美術学校」と「音楽学校」は現在の東京芸術大学のそれぞれの学部のことだろう。
地図と照らし合わせれば、当時のルートとほぼ同じルートで進める。早速「地図の見方」をガンガン学べている。すごいな、上野。いや、すごいのは樋口先生の地図の方か。
地図に沿って不忍池を上野動物園に沿って歩いていくと、学習目標に書いてある「東照宮」がすぐに現れる。
着いた。不忍池から徒歩3分ぐらいだ。日光東照宮と同じく徳川家康が祀られているこの神社は、現在から400年前の1627年創建。樋口先生一行がここに来たときも、現在とほとんど変わらない様子でここに鎮座していたはずだ。
足元を見れば随分とすり減った石の地面が広がっている。もしかしたら、この石の地面と全く同じ場所を、130年前に当時の生徒たちも歩いたかもしれない。というか、400年間、多くの人がこの上を通り、その石をすり減らして来たと考えると、なんだかエモくないですか?
さあ、進もう。次は「美術学校」と「音楽学校」の位置を見るんだ。
上野東照宮を抜け、そのまま進んでいくと、東京国立博物館横にある交差点に突き当たる。そこを左に進むと、当時の地図でいう美術学校・音楽学校の間の道に入る。
そして着いた!
東京芸術大学なんて私にとって雲の上の存在だ。当時の子供たちもここで大学に入る学生を見て、憧れの気持ちを抱いたのかもしれない。小学生と同じだな、私は。
日暮里方面へ:江戸の郊外に向かう
誰も再現したことのない遠足ルートを、130年ぶりに私は歩いている。そして今のところ、結構たどれている。当時の子供達が感じたことを同時に感じるのは、なんともいえない感慨に襲われる。楽しい。
上野を抜けた樋口先生ご一行はこの先、日暮里・田端・王子、と東京の中でもかなりシブく趣のあるエリアへと突入していく。
飛鳥山遠足で通った場所と同じ位置を示すGoogle Maps。日暮里から北の方へ我々は進む
今でこそ上野公園は歴史ある地区として人気が高いが、1896年当時は新しく開発されたエリアだった。現在で言えばお台場や晴海といったイメージが似合っているかもしれない。
それに比べても、1896年の段階で日暮里や飛鳥山といったエリアは江戸の中心から少し離れた郊外の農村地帯として認識されており、特に飛鳥山は江戸時代における代表的な郊外観光地の一つだった。今でいう日光的なイメージだ。明治の世からすでに、これから私たちが進むエリアはシブい場所だったのだ。
日暮里:諏方神社で線路を観察しよう
そんなエリアへ向かって行く。次の学習目標はこれだ。
諏方神社の境内で、そこから見える田んぼや、煙突、工場、線路を観察しよう
諏方神社は現在でも西日暮里駅のすぐ裏手にある神社だ。東京芸術大学を抜けた細い道をずっと進むと、この神社に突き当たる。さて、ここに向かって歩いていこう。
この細い道、やけに古民家が多く、そして外国の人が多い。なぜだろう、と思って考えてみると、なるほどこのエリア、「谷中」なのである。
谷中と言えば、「谷根千」の一つとして知られる東京を代表する下町エリアの一つ。外国人観光客も多いと聞く。上野からここまで近いとは思っていなかった。
調べてみると、谷中エリアは関東大震災や第二次世界大戦の被害が少なかかったために、それ以前の建物が多く残っているという。つまり、樋口先生一行もほとんど同じ建物を見ていたのかもしれないのだ。
この遠足ルート、当時の風景がかなり残っているのかもしれない。そしてそれだけに、当時ここを歩いていた樋口先生一行がどんなことを思いながら歩いていたのか、なんだか想像したくなるのだ。完全に精密な(=解像度の高い)遠足の記録が残っているわけではないから、想像の余地がある。楽しい。
例えば、この道を歩いていくとこんな坂がある。
名前通り、この坂の上から富士山がよく見えたのだそう。
そんな時、私は妄想してしまう。記録には書かれていないけど、樋口先生たち一行も絶対この坂から富士山をみて、キャーキャー騒いだろうな、と。なにせ小学生の子供達。もう収拾がつかなくなり、困り果てる樋口先生の姿も目に浮かぶ。本当に色々な想像の余地があるな、この散歩。
説明の看板によれば「都内各地に残る「富士見」を関する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂」だそう。しかしここからの富士山は、2013年に建てられたマンションでその姿の多くが隠れることになってしまい、今では隙間からしか見えないとのこと。うーむ、高層建築が増えた現在、明治と同じようにランドマークを見るのはなかなか難しい。
この富士見坂からすぐのところに、目的の諏方神社がある。
ここでのミッションは、「諏方神社の境内で、そこから見える田んぼや、煙突、工場、線路を観察しよう」。この神社、結構な高台にある。境内から見渡すと、田んぼや煙突、工場などは見えないのだが、線路はバッチリ見える。京浜東北線・山手線が諏方神社のすぐ下を通っているのだ。
この諏方神社は1205年。古い。飛鳥山遠足当時も、現在とほとんど同じ境内の風景が広がっていたはずである。私たちが今見ている境内の風景は130年前の子供が見た風景である。歴史の波動ってやつだろうか、それをビンビン感じている。
西日暮里:道灌山から王子まで、畑の観察をしよう
さて、諏方神社でのミッションを終え、気づけば上野から2駅進んだ西日暮里駅周辺に着いていた。西日暮里駅前には「道灌山」という丘のように土地が盛り上がっているエリアがあって、諏方神社もまたその中にある。
そんな道灌山でのミッションがこちら。
道灌山から王子までの道では、次のものを観察しよう
茶・大根・麦・蕎麦・人参・ネギ・麦の種まき、大根の収穫
すごいな。道灌山から王子まではとにかく農地だったらしい。大根や人参はまだわかる。驚くのは「蕎麦」だ。作っていたのか。もはや日暮里あたりはかなり田舎で、明治時代には農村が広がっていたのだろう。今でこそ、そうした畑はほとんどが住宅街に変わってしまっているのだが。
道灌山のあたりをずっと歩いていると、見えてきたものがある。
スカイツリーだ!でかい!
道灌山からだとかなりよく見える。そこで私はふと気づいたのだ。先ほどの「富士見坂」しかり、かつてこの近辺からは富士山がよく見えていたと言うが、現在はほとんど見えなくなってしまった。しかし一方で、今度はまた異なるランドマークであるスカイツリーがよく見えるようになったのだ。ある意味では、江戸や明治の人々が富士山を見ていたように、現代に生きる私たちもスカイツリーを見ることができるのだ。
樋口先生一行と私は、ランドマークという存在によって時代を超えてつながっているのではないかと思えてくる。遠足で歴史とつながるとは、なんて素晴らしいことなのだ。
田端:巨大な駅と、山林局の試験場を見る
さて、遠足もそろそろ佳境だ。ここからは西日暮里の道灌山から田端に抜けていく。田端でのミッションは次のようなもの。
田端駅を見るらしい。で、その大きさを知るという。飛鳥山遠足の頃、田端駅は非常に大きかったのかもしれない。道灌山から線路沿いの高台をずっと歩いていくと、すぐに田端駅の方に到着する。
ででんと。
「田端駅」
この崖の下に田端駅が広がっている。確かに田端駅の周辺にある線路、大きい。初めて見るかもしれない。
田端駅に向かうこの坂道、なぜか私と同じように写真を撮っている者が多い。なぜだろうか。実はこの坂道、新海誠監督の映画『天気の子』で舞台となった場所なのだ。
つまり、彼らは「聖地巡礼」を行っているわけだ。
岡本亮輔の『聖地巡礼』によれば、「聖地巡礼」とは「ある物語に沿ってその舞台となった場所を見にいく行為」とされている。
その点で言えば、130年前に樋口先生たちが行った飛鳥山遠足だって、現在の私たちにとっては一つの物語であり、私たちもある意味では『天気の子』の巡礼者と同様、特殊な聖地巡礼をしているのかもしれない。
西ヶ原:山林局試験場を探して
さて、田端駅で人工物の大きさを見物した後の行程はこうなっている。
山林局の試験場に入って、300種類ぐらいの植物を並べて植えて、全てに名前を付けよう
なんだかいきなりな規模感だ。300種類を植えるってすごくないか。で全部に名前を付けるのだ。そういえば学校で植物を植えてそれに名前を付けるってことをやった覚えがあるが、その走りなのかもしれない。樋口先生、色々とすごい。
とはいえ、山林局の試験場というのはどこにあるのだろうか。しおりの地図によれば以下の位置に試験場はあるらしい。
右側にある細い道は私たちが今歩いている道であり、そこに合流する形で左から伸びている道は、地図に照らし合わせると現在の本郷通りだろう。
2つの道が交わる場所の周辺に、かつて山林局があったらしいが、どこにあるのだろうか。
記念碑のようなものも見当たらず、ひたすらこの周辺をグルグル迷いながら歩いていくと、何やら大きな土地があった。
ここは滝野川公園。気になってその場で調べてみたら、ここにかつて、山林局の試験場があったのだという。試験場は1900年(明治33年)までこの地にあったが、その後、目黒に移されたという。また同じ敷地内には農業試験場も併設され、こちらは1980年までこの地に施設が置かれたらしい。
ちなみに面白いのは、この敷地の隣にある施設。
その名も、
なぜこの施設を取り上げるかというと、実は、国立印刷局の初代局長が、かの有名な渋沢栄一なのである。
なぜこんなに渋沢栄一を取り上げるかというと、デイリーポータルZの運営元であるイッツ・コミュニケーションズの親会社の東急電鉄の前身、「田園都市」を操業したのが他ならぬ渋沢栄一だからだ。
デイリーポータルZで執筆している身分としては、その大元である渋沢栄一に何かせねば、と思ったのだ。それが何になるのかよくわからないが、実は次節で飛鳥山遠足と渋沢栄一のとんでもない関係が明らかになるのです。
飛鳥山:昼食と自由遊戯をする
さて、残すところは最終目的地、飛鳥山に向かうだけ。
先ほどの滝野川公園を抜けて、道沿いに歩いていくと、
お
おお
おおお
ついた!!!
飛鳥山公園である。
ちなみに飛鳥山公園と書いてある隣には、
はい、出ました。渋沢栄一です。なんと彼の邸宅がここにあったというのだ。ここで妄想を一つ。
「渋沢栄一が飛鳥山に邸宅を構えたのは、飛鳥山遠足が理由」
完全に推測です。エビデンスとか言わないでください。ただこれ、完全に嘘っぱちというわけでもない。実はこの遠足、渋沢栄一の次男が生徒として参加していたのだ。
遠足の記録には、遠足に参加した生徒の作文も掲載されていて、そこに「渋沢正雄」という渋沢栄一の息子が登場するのだ。
パネルの解説によれば、渋沢がここに別邸を構えたのは、飛鳥山遠足よりも後のこと。彼はそれ以前から王子に別邸を建てていたというが、もしかしたら飛鳥山に本邸を移した背景には、この飛鳥山遠足があるのかもしれない。
渋沢正雄が家で父・栄一に飛鳥山遠足での体験を話している姿を想像してみよう。正雄が栄一に、「あそこ、遠足で歩いたけど、結構よかったよ」とか言ったのだ。だから渋沢栄一は本邸を飛鳥山に移したのだ。ちょっと想像を膨らませすぎて恥ずかしいが。
歴史の影に飛鳥山遠足あり、である。
さて、飛鳥山では「昼食と自由遊戯」の時間が設けられている。いつの時代だって、遠足は昼食と自由遊戯が最も楽しいのだ。というわけで飛鳥山で昼食を取り、自由遊戯をした。
130年も経てば、遠足を取り巻く昼食と自由遊戯も変化して当然だ。言い訳です。食べたかっただけです、マック。やりたかっただけです、スマホゲーム。すみません。
ここまでの道のりは約6キロだが、途中で寄り道もしたのでかなり疲労した。その状態で体に入り込むハンバーガーのおいしさったらない。食べるものは時代と共に変わったかもしれないが、旅の疲れと疲れに染みる昼食のおいしさは130年前と変わっていないと思った所存。
なんだかいい感じのことを書いてみたが、本当にそう思ったのだから仕方ない。
帰り道:かつての田んぼとしての住宅街
ここで遠足が終わるわけではない。「帰るまでが遠足」なのだ。
樋口先生一行は、飛鳥山から田端まで歩いて戻り、そこから電車に乗って上野まで帰ったという。なぜそんな中途半端なところで電車に乗ったかといえば、生徒の疲労がピークに達していたかららしい。
私の疲労だってピークに達している。もう電車に乗って上野に帰りたい。
とはいえ今日の目的は飛鳥山遠足の(ほぼ)完全コピーだ。頑張ろう。
飛鳥山の下に降り、京浜東北線の高架下をずっと歩いていく。
かつてこの辺りは全て田んぼだったらしく、帰り道での学習目標は、
・みなさんの足の様子により、飛鳥山の下にある田んぼ道を通って帰ろう
・帰り道では、田んぼ・稲の収穫や大根の洗浄、木綿畑、キリギリス、汽車、鉄道を観察しよう
と書かれている。
しかしどうなんだろうか。もはや目的の飛鳥山まで歩き切ってしまった生徒たちにとって単調な田圃道は辛いんじゃないだろうか。そして実際、130年後にこの散歩を追体験している私たちも、大変単調なあるものに悩まされる。
「住宅街」
かつて一面の田んぼだったこの辺りは、現在では一面の住宅街になっている。こう考えるとかつての生徒たちと感じている気持ちは同じなのかもしれない。
この道がえんえん住宅街で本当に辛かった。
そしてずっとずっとこの道を行くとようやく、
田端駅に着いた。やりました。
そして上野まで京浜東北線に乗って、、、、
到着!!!
これで遠足は完全終了。お疲れ様でした。
「解像度の低い聖地巡礼」
というわけで、130年前の遠足をほぼ完全に再現してみた。その結果思ったのは、この散歩、「解像度が低い聖地巡礼」だったなってことだ。田端に、『天気の子』の聖地があることは先ほども書いたが、そこで行われる聖地巡礼と、私たちが行った聖地巡礼には違いがある。
それが「解像度の違い」だ。
例えば『天気の子』の聖地巡礼に行く人はかなり明確に、自分が見たい風景のイメージを持っている。映画でその風景が克明に(解像度高めに)描かれているからだ。
しかし今回手がかりになるのは手書きの地図と、そこで何をしたのかという大まかな指示書のみ。
風景のイメージなどは全然なかった。でも、だからこそ、今回の散歩では飛鳥山遠足の行程に沿いながら、道中で色々な想像を膨らませることが出来た。もしこれが解像度の高い状態、つまりどこで何をどのようにするかがはっきりと決まっていたら、道中で行った想像(妄想)は出来なかっただろう。
ある意味で、解像度の高い聖地巡礼は、脇道に逸れることを可能にしてくれるのだと思う。その点では、最近の聖地巡礼よりも、広がりがある散歩だったのではないかと思ったりもするし、今後も何かテーマを見つけてやりたいな、この散歩。
「解像度が低い聖地巡礼」
この散歩をそう名付けてしまったわけだが、ともあれこのコース、片道6キロで起伏もあって面白いので、普通に散歩コースとして辿ってみるのも面白いと思う。