ところで
折り紙の黒はまだ大量に余っている。
折り紙の黒は余りがちらしい。3歳の子どもがいる我が家でも余っている。この余った折り紙で切り絵をした。テーマは『余ったもの』である。
うちに3歳の子どもがいて、最近はよく折り紙で工作をしている。
すごいスピードで作品を作る。そして淡いピンクや水色などパステル系の色が好きなので、同じくすごいスピードでそれ以外の色が余っていく。
鮮やかな色が好きな子どもって多そうなので、同じ状況になって困っている人って多いのではないか。そんな気持ちで『折り紙 黒』で検索したら『折り紙 黒 使い道』という検索ワードをおすすめされた。
折り紙の黒は余りがちで、使い道を検索したりするものなのだ。突然知らないあるあるに出会って小躍りした。
調べてみると、皆さん折り紙の黒でペンギンや黒猫を折ったり、手裏剣を折って活用されていた。
もちろん楽しく遊べれば言うことないわけだが、なんというか想像の範囲内である。レモンの皮をチンしてサッと拭くだけで電子レンジがピカピカに!みたいな意外性が欲しい。
『余った折り紙の黒はなめると甘い!』ときたら完璧だったのだけど他の色と同じ味だった。
なめたところで万策尽きたので編集担当の藤原さんに相談すると、切り絵なんじゃないかという提案をもらう。
そして余った折り紙を使った切り絵なので『余ったもの』というテーマで作品を作ることにした。余った折り紙が余ったものを表現することで作品になり、折り紙も、切り絵にされた『余ったもの』も結局は必要とされる。なんかそういうやつ、そういうアートっぽいアレなんじゃないか。
こんなテーマで切り絵を初めて、5つの作品ができた。紹介します。
『余ったもの』で最初に思い浮かんだのがパセリだった。料理の添え物として定番の野菜だが、食べられることの少ないパセリ。
僕はというと、余る、という印象が強すぎて気がついたら食べるようにしている。お刺身に添えてある小さい花も醤油に落として食べる。しかし最後にパセリを食べたのはいつだろうかと考えると思い出せない。パーティーで出てくる小さいサンドイッチに添えてあるイメージだが、パーティーなんて行かないのだ。
知名度の割に出会うことの少ない野菜なのかもしれない。そして余るイメージが強すぎて逆によく食べられているという可能性だってある。だとしたら気の毒な話である。イメージだけで足が遅いとか歌が下手だとか思われたら誰だって嫌だろう。もっとフラットにパセリに接していけるようになりたい。
食事を終えて、お膳を整えてさあ行こうかとなった時に袋からぽろっと出てくるつまようじ。もっと早く気がついていたら使ったのかもしれないけど、皆を待たせて使うようなものでもない。ましてや持って帰るようなものでもない。そんな経緯で余ったつまようじである。
なんなら袋に入ったつまようじに気がつかず、手に刺さってしまったりする。使われないどころか人に憎まれたりするのだ。不憫な余り物である。その点、折り紙の黒は人を刺さず、ただただ余っていくので良い。
そんなつまようじだが、欲しい時は本当に助かったりするので難しいものだなと思う。
大学生の時、大勢で飲み会をすると当然のようにピッチャーでピールを頼み、いつも少し余っていた。余裕があったら余った料理などは食べたりするのだが、ビールはお酒が弱いのもあって飲めなかった。
会社員になってから、あのピッチャーのビールはおいしくなかったねーという話をすることがある。最後の方、ぬるいのだ。だから余る。
しかしそうでもしないと皆にお酒を提供できないというお店の都合もあるわけだけど、そもそも、そこまでして大勢で一ヶ所に集まってお酒を飲まなきゃいけない事情があったのか、こういう時代になってしみじみ考えてしまう。全然必要ないような気もするし、あれはすごく楽しかったような気もする。
『余ったもの』を切り絵にするわけだが、あまりといえば割り算である。
大人になって、難しい計算はスマホの電卓を使うようになったので、筆算というものをしなくなってしまった。というか、四則演算そのものをけっこうサボって生きている。スーパーへ行っても今手に取っているものが高いか安いかを、フィーリングで決めている。高いっぽい数字と、安いっぽい数字があるのだ。
だから僕にとっては、割り算の筆算そのものが僕の暮らしから余っている。使えばいいのに。
弁当箱の右下の角に漬物がある。お弁当を温めてもらったら漬物も一緒にあったかくなりなんとなく敬遠していたら他を全部食べ終わってしまった時の様子である。つまり余ったのだ。
切ないなと思うと同時に、これもパセリと同様、お馴染みすぎて実際にはそこまで見ない現象ではないだろうか。コンビニ弁当の黎明期には実際に見られ、そして顧客満足の追求とともに絶滅した現象なのではないだろうか。どうだろうか。
だとしたらこの切り絵は、余った現象を受け止めるだけでなく、かつて起きていた余った現象を形に留め、後世に語り継ぐ役割も担っている。出る杭は打たれると言うが、余ったパセリも漬物も、余らないように工夫されていくものなのだろう。
『余っているもの』として定番の現象。これが共通の認識になっているということは、同時に余らないような工夫がこれからされていくだろうという予測が立てられる。食べやすいパセリが作られ、気が抜けずぬるくならないピッチャーが開発され、レンジで温める弁当からは漬物が入らなくなるのだろう。
『余っているもの』ではなく『これから無くなっていくもの』と思いながら切り絵を見るとすごく価値のある展示に見えてきた。
余っているものを考えることはこれから無くなるかもしれないものを考えることなのだ。折り紙の黒も、もしかしたら余らないように枚数が調整され、代わりに人気のある色が増えたりするのだ。
そうしたら余って困った末、折り紙をなめることも無くなるのだ。少し寂しいような気もする。困ってはいたが別に嫌じゃないのだ。
折り紙の黒はまだ大量に余っている。
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