青春18切符で富士山を一周する
乗りつぶしの達人、日詰さんは僕の会社のクライアントの方である。普段は日詰さんの会社からお仕事をいただいている訳で、つまり、日詰さんはお客様である。しかし、この日は「鉄道」という趣味を共有する仲間として1日中行動を共にするのだ。設定が「釣りバカ日誌」のようでもある。日詰さんの方が偉い人なのでスーさんで、僕がハマちゃんだ。
そんな日詰さんから、約束の1週間前に「乗りつぶし」の行程表が送られて来た。
停車駅順に書き出すと以下のようになる。
新宿(中央線)→大月(中央線)→甲府(身延線)→富士(東海道線)→沼津(御殿場線)→国府津(東海道線)→品川
朝8時14分に新宿を出発して品川に到着するのが18時48分。約10時間に渡って4路線を乗りつぶし、富士山の周りを一周するという。この行程だと、東西南北、すべての方向から車窓越しの富士山を見る事が出来る。乗りつぶしの旅なので、特急には乗らず青春18切符を使って移動するという。ハードな旅になりそうだ。
そして約束の日は快晴だった。頭の中で「世界の車窓から」のテーマ曲を流しながら、山手線で集合場所の新宿駅に向った。
寝てはいけない
約束の時間よりも10分早く新宿駅に着いた。しかし、日詰夫妻は僕よりも更に早く着いていた。夫妻と書いたように、日詰さんは奥様を連れての参戦である。青春18切符で移動する日詰夫妻と僕。一体どのように見えるのだろう。間違えたドリカムみたいだ。
8時14分、新宿から「ホリデー快速河口湖1号」に乗って大月を目指す。自由席はほぼ満席だった。僕と日詰さんが並んで座り、通路をはさんで奥様が座る。大月までは1時間20分、普段の移動であれば100%寝て過ごすが、乗りつぶしの旅は寝てはいけないのだという。電車に揺られながら車窓からの風景を楽しむ。それが乗りつぶしの基本なのだそうだ。
しかしこの日は朝が早かったので睡眠時間は2時間だ。ずっと起きていられるか、不安である。
鉄道うんちくを聞きながら大月まで
大月に着くまでの間、日詰さんの鉄道うんちくに耳を傾ける。
「この車両は長野行きの『あさま』に使われてたんですよ。モハ189-44ですから分かります」
モハ189-44の表示を見ただけで車両の過去が分かってしまうのだ。何でも189-44は、碓氷峠を超えるための協調運転の装備がされている車両なのだそうだ。協調運転が何なのか分からなかったので説明してもらったのだが、勾配が何パーミル以上だからなんちゃらなんちゃらと、難しい話だったので最後まで理解出来なかった。今、原稿を書くためにウィキペディアで詳しい説明を読んでみたが、やっぱり分からない。
「今日乗る身延線は、以前は富士身延線という私鉄だったんです。それを国鉄が戦時中に買い取ったんですよ」
元私鉄だった事もあり、身延線は駅と駅の間隔が短いのだという。風光明媚な場所を抜けていく単線で、2両編成のワンマンカーなのだそうだ。
「2両編成のワンマンカーって全国的に多いんです」
という事ですよ、皆さん。
そうこうしているうち、あっと今に大月駅に到着した。ずっと話をしていたので眠くない。ここで甲府行きの中央線に乗り換えるが、30分ほど時間が空いた。みんな朝ご飯を食べていなかったので、駅構内のそば屋で食べる事にした。
そのお店には「吉田うどん」というメニューがあって、大きなのぼりまで立っていた。きっと大月駅の名物なのだろう。せっかくなので頼んでみた。腰の強い麺に白菜と油揚げと人参が乗っている。僕は人参が苦手なので残してしまったが、人参以外はとてもおいしかった。
大月~甲府、よさこいのおばさま達
10時12分、大月発の中央線に乗った。甲府までの所要時間は約50分。車内はかなりの混雑であったが、早めに並んでいたので座る事が出来た。僕たちの席の周りには、元気のいいおばさまグループがいて、ワーワー言っていた。
「この区間はトンネルが多いので、寝ても大丈夫ですよ」
と日詰さんに言われたが、おばさま達のパワーに圧倒されて眠るどころではない。車窓から桜が見えるとワーワー言って、トンネルに入るとブーブー言っている。
眠いけど寝れない。貴重な睡眠時間を奪われたまま、電車は甲府駅に到着した。
甲府発の身延線で2時間半
甲府駅で身延線に乗り換える。身延線は甲府駅と富士駅を結ぶ地方交通線で、路線距離は88.4km、全39駅だ。途中の西富士宮で一旦下車し、富士宮焼きそばを食べる予定をしていた。西富士宮までは約2時間半、乗りつぶしの旅はここから本格化していくのだ。
次の身延線が入ってくるまで、甲府駅のホームでぼんやりと待つ。待ち時間は約30分。空気は少し冷たいが、日差しが強くポカポカしている。
「春霞で富士山が見えづらいかもしれませんね」
日詰さんが空を見上げて心配している。確かに少し霞んでいるようだった。冬の澄んだ空気だと富士山もクッキリ見えるのだろうが、真冬に吹きっさらしのホームで30分はきつい。
電車を待つ間、身延線の富士山スポットについて日詰さんが説明してくれた。主なスポットは2カ所あって、最初は南甲府駅を過ぎた辺りから富士山を南東に見る事が出来る。その後、沼久保駅周辺で、今度は北東に富士山が見える。
「沼久保辺りは有名な撮影スポットですよ。電車越しの富士山が奇麗なんです」
と日詰さん。どうやら、沼久保辺りで最初の盛り上がりがやって来そうである。
身延線、最初の富士山スポットなのに
11時30分発、身延線富士行きに乗った。身延線も中央線と同じように混んでいた。座りきれず立っている乗客もいるが、僕たちはちゃんと座れた。乗りつぶしにおいて席の確保は重要なのだ。
4人掛けのボックスシートだったので、僕たちの他に1人知らないおじさんが座った。おいしそうにお弁当を食べている。
中央線の中で日詰さんが言っていたように、身延線は駅と駅の間が短い。なので、最初の富士山スポット、4駅目の南甲府はすぐにやって来た。
ここから南東の位置に富士山が見える、はずだったのだが……。
いつの間にか曇天になっていたのだ。
富士山に雲がかかって頂上が見えない。
富士山を鉄道で一周する乗りつぶしの旅に暗雲が立ちこめてきた。
比喩でなく。
寝たらダメだ
南甲府では残念な富士山であったが、次の沼久保までに天気が回復する事を祈り、しばらく車窓からの景色を堪能する。沼久保まではまだしばらくある。
日詰さんも身延線に乗るのは大学時代以来らしく、新鮮な気持ちで景色を眺めている。本当に風光明媚で、のんびりとしていて、風光明媚で、のんびりとしていて……
まずい。もの凄く眠い。
日詰さんが時刻表を使って色々と説明してくれているが、その声がどんどん遠くなっていく。寝たらダメだ。寝たらダメだ。
と自分に言い聞かせながら、落ちていた。
寝不足な上にポカポカ陽気と電車の揺れ。強烈な睡魔には勝てなかった。
結局、次の富士山スポット、沼久保が近づいて日詰さんに起こされるまで、小一時間は眠ってしまった。何だか幸せな夢を見ていたが、内容は思い出せない。
そして沼久保である。天気は回復していなかったが、南甲府よりも富士山に近づいた分、さっきよりも良く見える。カメラを富士山に向けて連写するが、僕以外にそんな事をしている乗客はいない。なんで撮らないんだろう。富士山なのに。
曇っていて完全ではなかったが、かなり近い距離で車窓からの富士山を見る事が出来た。寝たので頭もスッキリとしている。
西富士宮で途中下車、お昼を食べよう
13時45分、電車は西富士宮駅に到着した。予定通り、途中下車して富士宮名物の焼きそばを食べる事にした。
西富士宮駅から富士宮駅方面に向って10分ほど歩くと、途中の浅間大社周辺に観光客で賑わっている場所があった。焼きそば以外にもおいしそうな物が沢山売っている。屋外のベンチで食べられるようになっていて、みんな楽しそうに食事をしている。まさにジャンクフードの楽園である。
僕たちも焼きそばを注文したが、出来上がるまでに20分かかるという。待っている間、お腹が空いて仕方なかったので、餃子、小龍包、豚肉を買った。
「焼きそばを待ってる間に他のものを売ろうって作戦かな」
と日詰さんが勘ぐっていたが、全部おいしかったので僕的にはプライスレスである。
しかし天気はどんどん崩れていく
僕は餃子が一番おいしかったが、日詰さんは豚肉で奥さんは小龍包だったという。誰も焼きそばと言わなかったのは、焼きそばに至るまでにお腹がふくれていたからだと思う。
食事には満足であったが、問題は天気である。外で焼きそばを食べてる間、ポツンポツンと顔に雨が当たるのを感じた。普段は浅間大社の後ろにどーんとそびえているはずの富士山が全く見えない。
沼津で判断を迫られる
ジャンクフードの楽園を後にして富士宮駅まで歩いた。富士宮駅から再び身延線に乗って富士駅を目指す。
「西富士宮から富士宮まで歩いちゃったので、厳密に言うと乗りつぶしにならないんですけどね」
と日詰さんが笑った。
正直、この時点で僕は一駅くらいどうでも良くなっていた。それよりも曇って富士山が見えない事の方が問題だ。このままだと見えない富士山の周りを一周する、というトンチのような旅になってしまう。
15時14分、富士宮発の身延線に再乗車。終点の富士駅で東海道線に乗り換え、沼津を目指す。予定では沼津で御殿場線に乗り換えて国府津に向う事になっている。その間、裾野、御殿場辺りで富士山スポットを迎える。のだが……、
まだ午後の3時過ぎだというのに、外はすっかり暗くなっていて雨も降っている。
「沼津でまだ雨が降っていたら、御殿場線はあきらめて、このまま熱海まで行って快速で品川まで帰りましょうか?」
富士駅始発の東海道線の車内で、日詰さんからそういう提案があった。富士山が見えなかったとしても乗りつぶしを続けるべきか否か。判断を迫られている。
3秒考えて、答えを出した。
「沼津で雨だったら帰りましょう」
富士駅に至るまで色々あって、もう十分だったのだ。これ以上イベントがあったとしても、それを記事に起こす気力がない。勇気ある撤退である。
雨あがらず
結局、沼津に着くまでの間に急激に天気が回復するような事はなく、沼津駅で御殿場線はあきらめた。
16時51分、熱海発の快速アクティに乗って、一気に品川まで上った。ビールのロング缶をそれぞれ一本ずつ空けて、ふと、横を見るとこの日初めて日詰さんが目を閉じているのが見えた。
これは乗りつぶしに入らないので寝てもいいのだ。
結局、御殿場線からの富士山を見る事が出来ず、富士山を鉄道で一周する旅は目標の半分しか達成出来なかった。それでも、総移動距離は357.9kmにもおよび、その距離は東京から名古屋までに相当する。青春18切符を使用したので、通常ならば6090円かかる距離を1600円で移動する事が出来た。
普段は単なる移動手段として利用している電車であるが、今回のようにただ乗りつぶすという乗り方もあるのだ。日詰さんはまだ北海道の道東と鹿児島周辺に乗りつぶしていない地域があり、近い内にそれも制覇する予定だという。
日詰さんが全国制覇について熱く語っている間、軽はずみな相づちだけは打たないよう、気をつけていた。