この記事を書くにあたって自分が作ったアーティチョーク料理を振り返ったのだが、食べきれない程あるのだから、もっとたっぷり贅沢に使って、普通は作れないようなメニューにもチャレンジすればよかったとちょっと後悔している。
ポタージュとかピクルスとか餃子とか、あとはなんだろう。やっぱり難しいな。とにかく来年の春までにゆっくりと考えておこう。とても楽しみだ。
最初に確認した3つのアーティチョークで終了だと勝手に思っていたのだが、あれは単なる序章でしかなかった。
一つの株にに一つのつぼみがついて終了ではなく、つぼみができはじめるとようやく縦に伸びだして脇芽が増えていき、そのすべてにどんどこつぼみができたのだ。よく見たら種の袋にもちゃんとそう書いてあった。イタリアで安かった理由はこの生産性あってこそか。
サイズはバラバラながら、一カ月程度の間に全部で100個くらいはできただろうか。まさかのアーティチョーク食べ放題状態。さすがに食べきれないので人にあげたいのだが、食べ方がわからないからともらってもらえない。
また隣近所の区画で畑をやっている人から「それはなんですか?」と当然の質問を何度かされて、まごまごすることも多かった。いろいろと初見殺しの野菜である。
ただおかげさまで、収穫すべきタイミングだったり、食べられる箇所だったり、サイズごとの適切な調理法だったり、実践を通じてだいぶ学ぶことができた。
今の私なら種の袋に書いていった「花托(花床)と総苞片の下部の肉」がどこなのかもよくわかる。これが人間の成長だ。
調理の楽しさも含めて、もはや大好物と言えるだろう。あとアーティチョークを食べる行為は、カニを食べるのに似ているなとちょっと思った。
そういえばイタリアに留学していた友人ならアーティチョークをもらってくれるかなと連絡をしたついでに、本場流のおすすめの食べ方を聞いてみたところ、「Carciofi alla giudia(ユダヤ風アーティチョーク)」を勧められた。なんと丸揚げである。
こいつを揚げるという発想はなかったが、とりあえずやってみよう。
これがとてもおもしろい味の料理だった。こんがりと茶色くなった総苞片はパリパリでゴボウチップみたいで、フカフカしたワタを外した花托から茎にかけてはこっくりした旨みの塊。仔牛の脳みそを思わせる味わいで、こんなにコクの強い野菜料理が存在するのかと驚く。
さすがイタリアの伝統料理、これは私には絶対思いつかないアーティチョークの生かし方だ。
6月も中旬を過ぎて暑くなると、アーティチョークのつぼみは徐々に色づきだしてきた。こうなると食用としては硬すぎるので、あとは花を楽しむのみである。
こうなる前に収穫するのが正解なんだろうけれど、さすがに食べ飽きてしまっている。なんとも贅沢な話である。
これだけ大きなつぼみが、どのような花を咲かせるのだろうか。
夏野菜が最盛期を迎える頃、アーティチョークの花は枯れ始めた。植物は秋になると枯れるイメージだが、夏を前に枯れ落ちるものも結構多い。
立ったまま少しずつ土に戻っていくアーティチョークの姿も、儚げで美しかった。でかいけど。
お盆が過ぎた頃にはすっかり枯れたので、飛び散らないようにビニール袋の中で花を割いてみたところ、1年と4カ月前に蒔いたものよりも一回り小さい種ができていた。
これが発芽するのかはまだわからないが、もし発芽したら一帯がアーティチョークだらけになってしまう恐れがあるので、種が落ちる前に全部回収した。
これで今年のアーティチョーク栽培は終了だが、うれしいことにこの植物は多年草なので、物語は続いていく。
枯れた幹をどけたところ、その根元からかわいい新芽が出ていたので、どうやら来年もまたあの味が楽しめそうだ。2年連続の豊作に備えて、もらってくれそうな人を探さなくては。
この記事を書くにあたって自分が作ったアーティチョーク料理を振り返ったのだが、食べきれない程あるのだから、もっとたっぷり贅沢に使って、普通は作れないようなメニューにもチャレンジすればよかったとちょっと後悔している。
ポタージュとかピクルスとか餃子とか、あとはなんだろう。やっぱり難しいな。とにかく来年の春までにゆっくりと考えておこう。とても楽しみだ。
| <もどる | ▽デイリーポータルZトップへ | |
| ▲デイリーポータルZトップへ |