ユーカリが丘線の内側を見にいく
その疑問を解き明かすには、なにはともあれ環状線の内側がどうなっているのか、自分の目で確かめねばなるまい。
谷間というのは水の浸食によって形成された地形であり、すなわち水の流路である。水田としては利用しやすいものの、水害のおそれがあるので宅地にはあまり適していないだろう。
なので谷間を避けてニュータウンを開発した結果、線路の外側にのみ住宅街が広がることになったのだろうか。
だがしかし、線路の内側にあるのは谷間だけではない。谷間を越えた対岸には、こんもりと木々が茂る台地が見えているのだ。なぜそこには開発の手が及んでいないのだろう。
説明板によると、千手院は奈良時代に創建されたと伝わる古刹である。元々は現在の佐倉市臼井にあったとそうだが、室町時代の明徳三年(1392年)に戦禍から逃れるべく当地に移転したという。
移転後の山号は稲野山と称し、その名の通り稲がたくさん実る土地であったことがうかがえる。この地に住む人々は、地盤が安定した台地の上に集落を築き、その周囲の谷間で稲作を営んできたのだろう。
もうお分かりだろう。元々この地には古くからの集落である「井野村」があり、その東側から北側にかけては村の人々が稲作を営んでいたであろう谷間の低地が存在する。
ユーカリが丘はそれらの外側に拓かれたことで、内側には昔ながらの農村集落、外側はニュータウンという構造が出来上がったのだ。
なお台地は南西へと続いており、集落から伸びる路地もまたその尾根に沿って南西へと続いていく。
ユーカリが丘線はこの台地をトンネルで横切っているのだが、その交差部分には庚申塔(こうしんとう)が祀られていた。
庚申塔は大陸から伝来した道教に由来する民間信仰で、道祖神(どうそじん、村の中へ悪いものが入り込むことを防ぐ神)などと同じく、村の出入口に祀られることが多い。
すなわちこの場所こそがかつての村境であり、その下を線路が通っているのだから、ユーカリが丘線は井野村の内外を区切る境目をトレースしてるといえるのではないだろうか。
緩やかな傾斜地に築かれたユーカリが丘
さて、井野村の外側に拓かれたユーカリが丘であるが、住宅街が造成される前はどのような土地だったのだろうか。
明治時代の地図を見ると、井野集落の周囲に広がるこれらの傾斜地には森林が広がっていたようである。かつて生活に不可欠であった薪を採るための里山として、共同で管理していたのだろう。
しかし昭和に入ると石油やガス、電気などが普及し、薪は使用されなくなった。維持する必要がなくなった一帯の里山を山万が買い取り、ユーカリが丘として開発したのだろう。
街づくりの歴史はおもしろい
ユーカリが丘線の外側と内側のギャップに興味を持ち、町について調べてみたら昔ながらの集落と土地利用の変遷を知ることができた。
ユーカリが丘を実際に歩いてみると、実に良く計画された町であることが分かる。山万は「街づくり企業」と銘打っているだけあって、分譲や建築のみならず、福祉や子育て施設など含めた町のトータルデザイン、さらには交通やセキュリティーまで、ハード・ソフト問わず文字通り街づくり全体を手掛けているようだ。
住民の世代が偏らないよう、毎年の分譲戸数を200件に限定するなど将来を見据えた開発を続けているようで、しっかり考えて街づくりをしてるんだなぁと素直に感心した。