マグリット本人は自画像として描いたというそれは、どこか歪んだ印象を抱かせる。
オマージュ作品も多数存在するので見覚えがある人もいるかもしれない。
(実際の作品:Magritte The Son of Man - Google 検索)
『人の子』は山高帽とコートを纏った男性がまっすぐに正面を向いている油彩画である。
落ち着いた色合いで描かれた男性は、飾り気は無いが身なりは整えられており、几帳面で真面目な人物に見える。
しかし、彼の顔の大部分は確認することができない。
青いりんごが宙に浮くようにしてその存在を主張しているのだ。
本来なら顔が描かれているであろう位置で、である。
その異様さが私の胸をときめかせた。
なんて不思議な人だろう!その裏ではどんな顔をしているのだろう!
ギャップ萌えだ。ゲインロス効果だ。印象操作の効果は抜群だ。
たった一つのりんごが平凡な日常感をぶち壊す。
ミステリアスでスリリングな、このかっこよさを実写写真で再現してみたい。
宇宙人や超能力者ならひょっとしたら物体を浮かせることができるかもしれないが、ここは重力に縛られた実直な地球人として、浮いて見える工作をすることにした。
東急ハンズにあるもので物体は浮かせられる
工作をするとなったら向かうは東急ハンズ。
あそこの店員さんは、聞けばたいていのことは答えてくれるのでとても信頼している。
先日は割れたつげのくしをくっつける接着剤を教えて頂いた。木工用ボンドで良いそうな。
しかし素直に「顔の前でりんごを固定するために必要な物は何か」と尋ねるなんて悪いことはできない。そんな風に忙しい店員さんを悩ませるなど、人の子ならしないだろう。だがこれについて相談するための正解の言葉が見つからず、結局2時間孤独に悩んで決めた。
最終的に材料として選んだのは、防塵ゴーグルと低頭ねじ、ステー(固定金具)の3つ。
「頭がでっぱっていると邪魔になるのでは」と低頭ねじを手に取ったところまでは私の脳は動いていたと思う。その先の記憶はモヤのようである。
それでもそれらしい物が買えたことに、ほっとしたり不安になったりしながら工作を始めよう。
防護器具なので穴を開けるのは難しいんじゃないかと思ったがそんなことはなく、綺麗に穴が空いてくれてほっとする。
買い物が大変だった分、簡単過ぎて拍子抜けした。穴を開けた際に散った削りカスがちゃぶ台の木目に入り込んでしまい、その掃除の方が大変だったくらいだ。
さっそく装着し、部屋にあった適当な箱を乗せてみる。
視界を覆われるので肉眼では確認することができないが…どうだろう。
手探りでカメラを顔に向け、シャッターを押した。
箱の一面しか見られないため、立体感が感じられない。
薄い紙を顔に貼り付けたようにも見える。
にもかかわらず、お面のように固定されているという印象はない。
よく見ると土台のねじ先が顔を出しているが、もし自分がこの画像だけ見せられたら、どういう仕掛けになっているのか気づけない自信がある。
顔の角度やカメラ位置によっては土台部分も見えてしまうが、
そこさえ気を付ければちゃんと浮いているように見えるだろう。
試しているうちに楽しくなってたくさん自撮りをした。
疲れた顔をしていてもどうせ隠れるので盛れ高を気にしなくてもいい。
写真アプリになかなか認識されない顔面の持ち主としては最高としか言いようがない。
顔が美しく写るアプリの次に流行るのはこのゴーグルだと確信した。
これはかなりいい感じなのではないか。
思いのほか簡単にできてしまってちょっと惜しいが、身なりを正し、りんごを持って外に出よう。
顔面が強くてもりんごはうかない
まず結果を言うと、りんごは浮かなかった。失敗である。
撮影に付き合ってくれた友人に申し訳なく、気休めにマグリットの別の作品、『山高帽の男』を鳩サブレーで再現。少しでも成果を残そうと迷走した結果のこれである。
元々はりんごを乗せるついでのつもりで用意していたのだが、思わぬ結果にこの日は鳩サブレー感謝の日となった。
因みに山高帽の男は同じく顔が隠された作品で、男性のポーズも服装もほぼ同じ。
しかし描かれているのはりんごではなく鳩だ。飛んできた鳩が偶然写り込んでしまったようにも見える絵で、『人の子』とは違う可愛らしさがある。
(山高帽の男:magritte Man in a Bowler Hat - Google 検索)
さて、失敗の主な原因は重量と形である。
りんごの重みがそのままゴーグルの縁にのしかかったのだ。
短い時間なら平気だろうとたかをくくっていた作りの甘い土台はすぐにぐらつき、球体であるりんごは転がりやすかったというのもある。
顔が割れそうな痛みを感じるなかで、支点力点作用点という遠い記憶のワードが脳裏を過った。てこの原理が、顔の上で働いている。
痛みから逃れようとついあごを上げると土台が丸見えになってしまい、思うような写真は撮れない。撮影の一瞬だけでも耐えようと姿勢を正すと、今度はりんごが転がり落ちる。
まっすぐ向き合いたいのに、我慢をして不安定になる。不器用な恋のようだ。
何度も試してみたが、結局どうにもならなかった。
お礼と謝罪の気持ちを込めて鳩サブレーをプレゼントした。
物が乗らなくもないのだという安心感と、
しかし肝心のりんごは乗らなかったというがっかり感を抱えてその日の撮影は終了。
実験は失敗か?このままりんごが浮くことは無いのだろうか?
冒頭の写真を思い出してほしい。この試みは成功する。
時間の流れが問題を解決することもある
見えない部分は無くても一緒なのでは?と、
半ばやけくその改善案としてりんごを半分にカットし、軽量化を図ってみた。
するとどうだろう、軽くなった分痛みは少なく、そしてゴーグルに立て掛ける形になるので転がらず、
りんごは比較的落ち着きを見せた。やはり問題は安定感と重量のようだ。
しかしこれは私が求める画ではないな。
りんごが乗ってくれれば正解だと思っていたが、そもそもゴーグルが大きくはみだしているせいでマグリット感が無い。
顔の前に収納スペースが欲しいのであればこのままでも良いのかもしれないのかもしれないが、こんなに露出しているなんて、最初に試した時には嬉しくて気づかなかった。
人は浮かれると目の前にある現実も見えなくなってしまうのか。
それならばとゴーグルが隠れるほどのりんごを探しかけたが、
冷静に考えてそんな大きなりんご、今度こそ顔が割れる気がしてやめた。
それでもなるべく大きくて安定しそうなりんごを探したり、
『人の子』に思いを馳せているうちに季節は巡り、
街はいつの間にか春の装いを片付けて、あらゆるお店に夏物の商品棚が現れる。
防塵ゴーグルよりも面積が小さい!
子供用サイズなら大人用よりもパーツが小さいし、黒いグラスなら目立たなそうだ。
これしかないと思い、すぐに手に取った。これで人の子ゴーグル二号を作ろう。
パッケージには「ソフトな顔当たりでお子様にも安心」と書いてある。私の顔面も安心させてほしい。
あとはうまくりんごが顔の前に落ち着いてくれれば、
そして少しでも顔の痛みがやわらいでくれれば万々歳だ。完成した二号を手に、再び外へと飛び出した。
支え合う関係になりたい(りんごと)
季節は初夏。対して服装はシルクハットとコート。
せめて空が実際の絵のように曇ってくれればと思ったが、この日はすがすがしいくらいの快晴。
風景と服装がちぐはぐで合成写真のようだ。
一号は構造的に土台がゴーグルにしっかり止まらず不安定だったため、留めるねじを増やして緩まない形にした。土台のステーも長さを出して安定感アップ。
L型ステーも横から支えてくれる。転がり落ちてしまわないようにつぶ状のすべり止めも設置した。
りんごもこれで少しは安心だろう。
なるべく痛くありませんようにと念じながらそっと。どうだ?
りんごの重みを顔で受け止めていることは間違いないが、顔の肉ごと地面に落下しそうな感覚。
ニュートンの万有引力を思い出させる。
ゴムによって顔が締め付けられ、目はうまく開かない。引っ張られるような痛みが強い。
だが、ゴーグルの縁を覆うゴムが当初の問題であった食い込むダメージを吸収してくれている。
これなら我慢できる。
りんごも多少顔を振っても大人しくじっとしているので改善の甲斐があったと言える。
なおパートナーには青森県産の王林というりんごを選んだ。
この名前には「りんごの王様」という意味を込められているらしい。頼もしい名前にあやかりたかったのだ。ちょっと人間の吐息がかかる仕様の玉座だと思って顔の前にどっかり居座っていて頂きたい。
いざ『人の子』へ
成功を確信したところで撮影へと移る。ここからはカメラマンが頼りだ。
ローアングルだと金具が見えてしまう。
カメラ位置をやや高めに、少し離れて撮ってもらう。
自分の視点だと薄暗い視界いっぱいりんごが埋められているので分からないが、
撮影してくれている友人のどよめきで浮いた!と思った。
りんごを乗せたまま小躍りしたい気持ちをこらえてそわそわする。
自分以外の人が浮いて見えると思ったならばそれは浮いているといってよいだろう。
重みで鼻がもげそうであることを知っているのは私だけなのだから。
りんごはりんごで変に体を傾けたりしなければ落ちない。
堂々としていてくれてうれしい。
なお、右腕をやや後ろに回しているのは、絵の人の子の右腕が捻ったような描かれ方をしていたのを再現しようと思ったささやかな気持ちの現れである。
水中ゴーグルはシルクハットの色となじんで目立たなくなったが、
土台の白い部分が少し見えているのでさらに遠ざかってみる。
遠ざかったら風景に混ざり込んだ異物感が強まった。
人の子というか妖怪のようだ。
コートの下から脚が生えているせいで、そういったタイプの変質者にも見える。
顔の隠している物の怪か、隠しておくべき部分を晒す趣味がある変態か、
どちらにせよ公園で会ったら人に助けを求めたくなるビジュアルだ。
絵ではかっこよく見えるのに別の意味で危険が香りがする。生命の危機である。
空想でのかっこよさと現実でのかっこよさはイコールではないようだ。
しかし、作品が醸し出す不可解さと強烈なギャップは再現できたのではないだろうか。
私とりんごは一回目の撮影とは違う達成感に満ち溢れていた。
見えないものと見えるもの
『人の子』は、どうしてりんごで顔を隠しているのだろう。
マグリットはこの作品について、
「そこに顔が存在していることは分かるが、りんごで隠れているために見ることができない。
人は、後ろに隠されたものを見たくなる。見えているのに見えないものに関心を持つ。
この隠されたものへ対する関心は、見えるものと見えないものの間で葛藤のような強い感情として現れるかもしれない」
というようなコメントを残している。
見えているのに見えないもの…
承認制の非公開ブログ、玄関や窓を開け放している家の中、思わせぶりなあの子の気持ち、トリミングやスタンプ加工で一部分を隠された写真。
なるほど、見えているけれど見えないものに対する関心は確かに存在する。
そしてそれに対して大なり小なり悶々としている。
でも、彼が言いたかったことをこれで正しく理解できていると言えるのだろうか。
そこでまた頭を抱えてみたり、分かったつもりになって、
今日もりんごの向こうの見えそうで見えない顔へ思いを馳せる。
シュルレアリスムはむずかしい。
もしかしたら絵の中の『人の子』も、りんごの向こうで顔を歪めていたのかもしれない。