特集 2020年2月12日

時代が違えば好物も違う?ピカピカの90歳祖母をインタビュー

12月に入った頃に「年明けに祖母の卒寿のお祝いをする」との連絡があった。

愛知に住む母からだ。

1928年、昭和3年の1月生まれ。卒寿というと、つまり90歳。

えっ、おばあちゃんもう90歳になるの。

愛知県出身、東京都在住のデザイナー。イラストを描き、写真撮影をして日々を過ごす。
最近は演劇の勉強に熱中。大きなエビフライが好き。

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母の母である祖母とは、幼い頃は家が近かったので一週間と会わない日は無かった。筆者は7年前に上京したので今では半年に一度会う程度だが、生まれてから30年近く時間を共有しているということになる。

でもその長い年月の間に、私は祖母の好きな食べ物のひとつも知ることはなかった。だから帰省の際のお土産選びでもいつも悩んでいる。

逆に祖母はというと私の昔の好物を記憶していて、会えば「好きでしょう」とミニトマトをくれるというのに。
いまさらなにも知らないということを急に恐ろしく思えてきたので、この機会に祖母の90年について聞いてみることにした。

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好きな食べ物はクマ

写真右側、奥の女性が今回の主役である祖母だ。

2020年元日 祖母宅。

新年には従兄弟家族たちと集まり、座敷に長机を並べ、こうしてご飯を食べるのが恒例となっている。今回は新年会兼、卒寿のお祝いパーティー会場である。

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母が着付けをして他の子供や孫がプレゼントを用意した。めでたい。

東京から名古屋へ新幹線で約2時間半。それから実家に戻ることなくここに連れて来られたので帰省した実感が薄い。ぼけっとしていると

「インタビューってなにい。滅多に会えんおばあさんと喋る口実やろ」という酔った親戚からの冷やかしが襲ってくる。

それをかわしながら、お祝いを済ませて普段着に戻った祖母をつかまえた。

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親戚とはいえ客がいる時にはくつろげないらしい。座敷の酒盛りをよそに一人で家事をしていた。

「仕事で必要だから」と理由をつけて腰を落ち着かせてもらう。膝を突き合わせて会話をするのは何年ぶりだろう。いつ見ても元気そうだと思っていたが耳が遠くなっており、私の低い声はなかなか聞き取ってもらうことができない。
意思疎通に不安を感じつつ取材を始める。まずは今後のお土産の参考にするためにも好きな食べ物から。

「好きなたべものはねえ、野菜。野菜ならなんでも食べるんやわまあ。
くだものも…なんでも食べるね。なんでも」

さっそく東京から持っていかなくてもいいものだ……。

「魚はね、ニシンの昆布巻き。
田舎におるときからね、お正月はね、ニシンの昆布巻をよく食べとったの。やらかく炊いて。今年も作ったよ。好きだから。お正月はいつもそれが楽しみ。
田舎ではね、大根とね、こうじとね、にしんを重石して漬けたものをよく食べとったの。在所の先祖からずっと。だからね、ニシンは好きなの。田舎で食べた味やなって思い出すの」

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祖母の故郷は岐阜の山奥。車でないと行けないような場所。(画像はイメージ)(写真ACより)

お墓参りのため何度か連れて行かれたことがある。川が近い山の中で、鮎の塩焼きなどが売っていた覚えがあるが、本人は川魚は好きじゃないと言う。

「肉は好きじゃないんだけど、2,3年前から、お医者さんから食べないかんって言われたもんで、牛肉も少し食べるようになったし、卵も一週間に一個くらいは食べるようになったよ。その前は肉は、50年くらいは食べんかった。

でもね、クマの肉が好きだった。

すき焼きとか作ってもらって。それで家族みんなで食べた。初めて食べたのはねえ、田舎におった頃やで80年くらい前やね。
兄がね、狩りをやってたの。冬から春にかけてね、山におるのを獲ってきて。
肉は嫌いだけど、クマは臭みもなにも無いからね、食べれたの」 

クマ!?
野菜が好きだ肉は嫌いだと、案外好き嫌いが激しいのかと思いかけたところで突然クマ肉が飛び出してきてびっくりした。聞き耳を立てていたのか、少し離れて座っていた従兄までおどろいて側に寄ってきた。
祖母はいたずらっぽく笑いながら話を続ける。

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おばあちゃんはクマが好き。

岐阜でクマが食べられるの!?というこちらの反応を置いてけぼりに、ネズミがテケテケ歩くようなテンポで話が進む。

「クマはね、首のところが白いね、北海道にもおるクマだよ。40kgとか50kgとかのを丸々一頭。
冬だから、寒いからね、冷凍庫みたいなもんでしょ。保存がきくの。冬が一番おいしいの。脂がのっててね。
シシ(イノシシ)も、よく獲ってこられたけどシシの肉は臭いし。それ以外は田舎では全然食べなんだ」

ツキノワグマの肉。今でも食べられるものなのかとネットで調べたら、200g 3,000円ほどで売られていた。希少品の扱いではあるものの買えなくはないという程度の値段だ。イノシシはもっと安い。

近所のスーパーで売られていた焼肉用の高級牛肉が同じ量で1,650円だった。
牛を育てるのもまた、時間も手間もかかっているのはもちろんだが、猟師さんが命がけで獲ってくるのだ、もっと高くてもいいんじゃないか。

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11人兄弟の七女と、右は4人兄弟の長女。

11人家族の食卓 

「家族はね、兄弟が11人。男が3人で、私は下から2番目の七女。
おじいちゃんと、おじいちゃんのお嫁さん。子どもんたち。
人数は多かったけど、なんでも平等にわけて食べてた。
だからご飯の取り合いとかそういうことはないの。みんなが仲良くね。大人も子どもも仲良くね。

私は昔は体が弱くてね、一年生の頃は毎日薬を食べとった。いつも私だけが薬を食べとるもんで兄弟が集まってきてね。
『俺にもくれ、俺にもくれ』って。食べちゃうんだわ。おいしい薬だったの。でも毎日は食べたくないがね。
だからみんなにやってさ、大人にはもう食べ終えたような顔をしとった」

「薬」とのことだが、薬物ではなく、栄養がとれる食事のことを言うらしい。
欠かさずとらなければ大変なことになるような薬でなくて良かった。
兄姉たちに囲まれてこっそり食べてもらっている少女を想像する。

筆者は4人兄弟で、実家でのご飯はたいてい大皿。食べる量は早い物勝ち方式だった。とっておいたおやつを別の誰かが食べてしまっても、名前を書いておかなかった者も悪いと言われてしまう弱肉強食の世界だ。

スーパーやコンビニなんて無い時代だし、何十人といてはさぞ大乱闘だろうと思ったのだが、食が細い人からすると自分の物を人に食べられるということは苦ではないのか。食い意地が張っているせいで気が付かなかった。

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クマ鍋(イメージ)(写真ACより)
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17歳、名古屋へ出稼ぎへ

「岐阜から名古屋にでてきたのが17歳のとき。終戦すぐから、昭和30年まで。17歳から27歳までの10年ね。お兄さんが勤めとった、名古屋のお菓子屋さんの主人のとこにお手伝いにいったの。千種区、唐山町でね、東山公園から続いとるところにお屋敷があったの」

―お手伝いっていうと、人が足らんで、誰か働き手はおらんか、って呼ばれたってこと?お菓子屋さんで働いたの?
「違う。お家の、お手伝いなの。大きなお庭があってね、掃除も、草刈りも、なんでも、なんでもやらんなかん。
男の人と女の人が3人ずつくらいかね、お手伝いしてた。仲良かったよ。
特に面白いことはなくて、毎日真面目に勤めるだけやったけど、別に嫌いな人とかおらんかったね。みんな同じように平等やった」

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名古屋に出たばかりの頃の写真。手前の人物が祖母で、背後が働き先であったお屋敷からの風景。道路も背の高い建物もない。
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現在の東山公園。東山動植物園前。
今でも植物の多い地域ではあるものの、住宅街が広がる大通りとなっている。

東山動植物園の開園は昭和12年。
その約10年後、少女だった祖母がこの辺りに住みだした。
東山動植物園は愛知県民にとってなじみ深い場所だ。遠足や校外学習に利用されるため、県内に住んでいる人なら一度は必ず行く。突然知っている場所の話が出てきて、急に夢から覚めたような感覚。

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今では飼育動物数が日本で最も多い東山動物園。敷地内に植物園やタワー、遊園地もある。
戦争直後の動物園はゾウや小動物しかいない状態だったが、祖母が訪れた戦後4,5年には大体揃っていたそう。さらりと言われたが動物園って5年で大体揃っている状態になるのか。

2020年から数えて5年前だと、マイナンバー制度が始まっていた。アップルウォッチの登場もこの年。つい最近な気がするし、ずいぶん前な気もする。

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祖母(左)と仕事仲間、お屋敷の前で。
髪はひっつめているが、服は現代でもありそうなデザイン。ZARAあたりで買えるのでは。

―岐阜の田舎と名古屋の街とではだいぶ違うやんか。なんか悩んだりせんかったの?
「悩み事たって、悩みとか感じたことないの私は。
どこいったって自分がやらんならんことをやってきたから、なんも悩まなかった」

 
―将来のこととかも?
「あー将来のことはねえ。おじさん(実父の弟)がねえ、
『お前は長いこと働いておったんだから、どうやあ』って、お仲介してくれたの。
一緒の会社におる人が、真面目やでって。その人と見合いして28歳で結婚した」

『将来』というだけの言葉で、「嫁ぎ先について」と解釈されることにドキリとした。

八百屋、VANで大儲け

「結婚してからはお父さん(夫)はが勤めとった糸を染める会社の社宅に引っ越したの。その頃に『10年経ったら地所買って家建てる』って目標を立てて、内職を始めた。

土地柄はたを織るか、ワインダー(糸を巻く機械)回すかしかなかった。私は着物の布を織っとった。女の人は家で内職をしながら家のことをする。外に働きに行くことはないね。それが当たり前やったの」

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場所は名古屋市外にある一宮市という織物で栄えた地域。当時と比べると減ってはいるものの、今でも繊維系の工場が多い。この日は年始のせいか静かだったが、可動時には声がかき消されるほど大きな機械音が響く。

上の画像は社宅があった場所のすぐ近く。現在この周辺には新しい家が並んでいるばかりで当時の建物はほとんど残っていなかった。

「子供たちはいつもはた織りの音で寝とって。がちゃんがちゃんってその音が止まると『がゃー!』って泣いとった。
ミシンもやるし、子供の服は自分で作ったし、そういうのは全部自分で覚えたね。
子供の髪も切った。一緒に耳も切っちゃったこともあるけど」

耳を切られた被害者である母はつい最近のことのように恨み言を言っていたが、祖母はまた子供のように笑っていた。切られたという耳は母の頭の側面にしっかりくっついている。

「この頃やっとったのは、ほとんど内職と家の事だけ。近所に商店街があって。八百屋さんには毎日行った。商店街には雑貨屋、パン屋さんや、まんじゅう屋さんもあって。医者もあった。

特に八百屋さんは大きくて、服でもなんでも売っとった。VANっていう服を置いてからすごい儲け出して。家族総出でやっとる店だったから、八百屋、服屋、スーパー経営って、市内でみんな一店ずつ店を持ち出して。
でも結局、長男がギャンブルで負けて全部とられて、他の家族の店も全部潰れた」

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八百屋さんがあったという通り。 せまい地域で、よその家のうわさが全部回ってきていたという。

「近所の人はみんな良い人だったけど、いじわるな人が一人おった。隣の家におったおばさん。

社宅は一軒屋だったけど、トイレはなんでか共同で。自分ところの息子が痔でトイレを汚してるのに、『あんたが汚したんでしょ!』って言いがかりをつけてくるの。
根性が悪い人で、はたを織っとるとね、怒鳴ってござった。『うるせーでやめてちょーよー!』って!」

息子が痔を患っているという噂も当たり前のように近所に知れ渡る。

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どの話題も、「平等だった」「幸せ」と〆られていたなかで変わった人の話がでてきてちょっと嬉しくなってしまった。悪い顔をしている。

「少しずつお金をためてって、ちょうど10年たった昭和42年に家を建てたの。この家。ここも50年くらいになるわね。
支那事変があって、そのあと大東亜戦争があったでしょう。だから学校は六年生までしか通ってなくて、読み書きとか計算は大人になってから覚えた。自転車も50過ぎてから乗り方練習したんだよ」

 

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「結婚指輪?」「自分で買った。二万円。結婚指輪ないから」伊勢旅行の時に祖父からもらった指輪はあるそうだが、サイズが合わずしまってあるらしい。この指輪もぶかぶかだけど。

60歳と90歳のちがい

「60になった頃はね、なんかえらい(だるい)ような気もしたし、私ももう長生きせんと思って、体大事にせないかんなと思って。でも今の方がね、元気になっちゃって、自由に動けるの。なにやってもえらくない。んだで、本当に幸せやなって思う。

今ね、ちょっと畑を借りて、野菜づくりしてる。キャベツとかね、ブロッコリーとか、レタスとか、大根とか。
いろんなものを少しずつ作って。それを自分で食べたり、近所に配って、友達作りしてる。

そうするとね、友達がまた自分とこでとれたものを持ってきてくれるの。
それでまた、少しでも人のお手伝いができたらやりたいなあって。
人のために尽くすっていうのが一番大事かもしれんね。毎日幸せで感謝の気持ちで過ごせれる。
悩みったってね、悩みを悩みだと思わなくなったの。逆に若い人を激励しとるの」

どの話も大体、平等、幸せ、感謝、につながっている。話を聞いていてどんな前向きな人生かと思ったが、
「悩みを悩みだと思わなくなった」ということは、やはり昔は悩んでいたこともあったのだろう。
90歳は人生のランナーズハイのタイミングなのかもしれない。


最初は「インタビュー」という言葉に戸惑っているようだったが、話しているうちに口調は少女のように軽快になり、こちらがあいづちを打っている間にも喋っているほどだった。
「まあ今日はみんな来てくれてありがたいわ。今年も元気で頑張りましょう!」
そうして祖母の卒寿を祝う会は幕を閉じた。
好きな食べ物が分かったので、つぎの帰省の際はインターネットからクマの肉を送りたい。

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「テレビでやっとる健康法をね、自分でもやれるなってことだけを覚えて、それをずっと毎日やっとるの。梅子ちゃんも今のうちにやるといいよ」

そう言って、血のめぐりが良くなる体操と、尿漏れ改善の体操を教えてくれた。 

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