博多のラーメン屋『一番軒』で社会科見学
いまさら社会科見学をして未来が変わるような年齢でもないのだが、いくつになっても知らない世界の扉を開くのは楽しいもの。
どうせ開くなら今の自分が興味のある分野ということで、友人の友人のご両親がやっているラーメン屋さん、博多の『一番軒』というお店でお話を伺わせていただくことにした。
昔ながらのラーメン屋さんという佇まいをした一番軒。
まずやってきたのは、上の写真のお店ではなく、ご主人である蒲池さんのご自宅兼製麺工場だ。
小学生の頃のように、ただ仕事内容を見学させていただくだけではなく、せっかくなので今に通じるお店の歴史を、じっくりとお聞かせいただいた。
1939(昭和14)年生まれ、79歳の蒲池巖さん。まだまだ元気、そして現役。
一番軒は製麺工場からスタートした
一番軒の麺は蒲池さんが自分で製麺機を使って作ったもの。自家製麺をしているラーメン屋さんは数多くあるが、その生い立ちが他の店とはちょっと違う。
もともとは蒲池製麺という製麺屋で、そこから独学でラーメン屋をオープンし、両方の仕事を掛け持ちで努め、今は自分の店のためだけに麺を作り、一番軒に専念しているのだ。
じっくりと話を伺わせていただきます!
「私が小学一年生のときに戦争が終わりました。うちは小さな寺だったんですよ。戦争に負けて、神も仏もないご時勢、大事なお米を差し出してくれる人なんていません。だから、おやじは爺さんの後を継がなかった。三度の食事もおまんまが食べられない、お芋でも食べられればいいほうですよ。そういう事情があったら、全日制の高校にはとてもいけなかったので、夜間高校に進学しました。
昼間は柳川市の製麺工場でアルバイトをしていた。川下りの船が発着する街で、自転車の荷台にうどん玉を積んで、食堂とかに配達するのが役割だった。戦後の食糧不足の時、うどんを茹でるでしょ。その茹で汁を下さいっていう人もいる時代です。食べ物はあればあるだけ、いくらでも売れました。朝8時に出勤して、配達の時間までは製麺の手伝いもしましたから、そこで麺の作り方を習得した訳です」
こちらは自宅にある製麺所。回想シーンの画像はないので、製麺の様子をお伝えします。
この製麺所でのアルバイトの流れで、そのまますんなり製麺の道に進むかと思いきや、行く道は大きく蛇行していた。
配達途中に食べた思い出のラーメン
「18歳で高校を卒業して、柳川の鮮魚問屋で働きはじめました。まだ免許を持っていないから、鮮魚を運搬するトラックに助手として乗って、柳川から下関を往復するんです」
チャンポン用の麺作りを実演していただきました。ラーメン用も粉の種類や水分量、麺の細さが違うだけで、基本的な工程は一緒だそうです。
「途中で久留米市を通るんですが、博多ラーメンは久留米が発祥の地じゃないかと言われています。国道3号線の筑後川を渡る橋の近くに、今もある丸星ラーメンという店があって、これが昭和33年開業。関門トンネルが開通した年です。深夜にそこの前を走る訳ですよ。この丸星のラーメンを食べるのが楽しみでね。
もう60年も前ですね。当時の店はカウンターだけで、ラーメンは脂がベッタベタ。それが本当の豚骨ラーメンですよ。まだまだ今の博多ラーメンのような細い麺は流行っていなかった。あれは作るのが非常に難しかったんです。倍くらい太かったですよ」
どうやら一番軒の味の原風景は、配達の帰りに立ち寄った丸星ラーメンのベッタベタな一杯だったようだ。それにしても、想像しただけでお腹の鳴るシチュエーションである。
40年以上使い続けている機械で、粉とかんすい入りの水をミキシングする。。この機械を使いこなし均一に混ぜられるようになるまで、何十年も掛かったそうだ。
「なんで脂たっぷりの豚骨ラーメンが重宝がられたか、わかりますか。戦後、日本の食糧事情が困窮している時代に、肉なんて食べられたもんじゃない。私は農村のど真ん中で生まれたんですが、近所のお百姓さんが特別なお客様が来た時に、飼っている鶏を絞めるくらい。それに年1回ありつけるかどうかですよ。
動物性脂肪、タンパク質に飢えている。だから脂っこいほどうまい。脂っこくなければラーメンじゃないぞ。脂肪こそが旨味、甘味なんです。そういう時代に博多ラーメンというのは始まったんです」
チャンポンで15分以上、博多ラーメンなら30分は混ぜて、しばらく寝かせてから次の工程へ。うどんに比べて水分が少なく、カラカラのオカラみたいな状態。
「今はスープに浮いてきた脂を捨てたりしてるでしょ。それが日本の戦後の変遷、変化。嗜好の移り変わりですかね。たまに若い人が店に来て、コッテリしたラーメンが食べたいっていうと、スープの上澄みの脂をたっぷりと入れてやるんだ」
一番軒の歴史を越えて、博多ラーメンの生い立ちの一端を知ることができたのは収穫だ。
この丸星ラーメンの味に感化されて、製麺とラーメン屋の道に戻るかと思いきや、さらに道はうねり続けるのだった。
長距離トラックからタクシー、そして製麺所へ
「その後、昭和43年に博多へ引っ越してきて、長距離トラックの運転手になり、東京まで往復していました。家具を積んで10トン車で回るんです。
当時は高速道路もろくにない時代で、片側一車線の道路を寝ずに走る訳です。 東京まで片道36時間。劣悪な環境で、居眠りして事故をする人が多かった。櫛の歯が抜けるように同僚が死んでいくんです。恐怖でした」
三台目に購入した中古の製麺機。これでミキシングした生地を伸ばしていく。
「そんな状況で、正当な時間外手当を払ってくれと会社に言ったら、仕事を取り上げられました。3人目の子供が生まれて間もないときです。仕方なくトラックからタクシーに乗り換えましたが、なかなか稼げません」
今でこそブラック企業という言葉が一般的になったが、当時から真っ黒な企業は存在し、それを訴える手段もろくになかったのだ。
オカラ状の生地が回転する二つのローラーの間に吸い込まれ、平らな帯状になって巻かれていく。
「私は車が好きで、大阪や東京を走っていると、そっちはいい車が走っているから、なんの仕事をしたらこんないい車に乗れるかなーなんて考えていました。
そしてある日、『そういえば、俺は麺なら作れるわ!』って。タクシー運転手を2年でやめて、いきなり製麺所を始めることにしたんです」
はい、ようやくここで現在の仕事とつながった!
繋がり方が急すぎる気もするけれど、人生の転期とは、意外とそういうものなのかもしれない。
わかりにくいけど、二つの向かい合ったローラーに生地が挟まれて伸びている。
埋まらない17年のギャップ
製麺所で働いていた経験があったとはいえ、それはあくまで高校時代のアルバイトの話。そううまくいくものなのだろうか。
「この蒲池製麺は、私と女房、女房の妹の3人で始めました。今も3人でやっています。自分で家の土間にコンクリートを伸ばして、中古の製麺機を買ってきて、昭和48年に製麺所を始めた訳です。でもやっぱりギャップがありました。当時35歳だから、製麺所でバイトしていた18歳から17年も経っている。社会が変わっているんです。
なんとかして自立の道を少しでも前進したいと、もう必死ですよ。身を粉にして働きました。長男は今55歳ですけど、朝6時頃たたき起こして、こき使ってね。学校帰りの娘にも、作った麺の袋詰めを手伝わせて」
「身を粉にして」という部分で、「製麺所だけに」と言いたかったが、さすがに言えなかった。
続いて帯状にした生地(麺帯)を二つ折りにして、重ねた状態でローラーに通して、一枚の帯に圧延をする。
複合圧延された麺帯が、きれいに巻き取られていく様子を眺めながら酒を飲みたい。
「どんなに頑張っても、私がアルバイトしていた頃と同じ手作業では、対応できないくらいに市場が変化している。はじめた頃はまだよかったですが、スーパーのダイエーが福岡に進出してきた。まず柳橋市場の向かいにできて、それが急速に展開したでしょ。そこで包装麺を売り出した。すると個人のお客さんは、そっちで麺を買うようになる。
じゃあダイエーに卸せるかといえば、こっちは粉を厳選して一等粉を使ってますが、販売店は50銭でも1円でも安く売りたい。完全に買い手市場で、値段が合いません。もう限界を感じましたね」
麺帯はさらにローラーを通されて薄くなり、並べられたもう一台の製麺機へと送られていく。
消費者としては便利な存在である大型スーパーだが、生産者であり販売者でもある製麺所としては、対抗するのが難しい存在だったのだろう。
1円でも安いものを求める客のニーズが、こういった形で影響してくるのか。まさに社会科見学になってきたぞ。
伸ばされた生地は、チャンポン用の切刃(丸麺用)で細長くカットされる。
完成した麺の出来栄えをチェックする目は厳しい。
ラーメンの麺は生麺だが、チャンポンの麺は茹でて扇風機の風で冷やして、袋詰めをした茹で麺だそうです。
ラーメン屋での修行はせず、一番軒をオープン
「蒲池製麺はこのままじゃだめだと気が付きました。それでラーメン屋さんとかうどん屋さんに配達で回っていて、こんな店をはじめたいなーって。麺を製造販売するだけではなく、来客のあるラーメン屋をやりたいと思ったんです。
開業資金なんかなかったですが、どうにか一番軒を始めました。駐車場もろくにない、カウンターだけのお店です」
そろそろラーメンを食べさせてもらおうと、一番軒にやってきた。今年で一番お腹が空いている。
左から奥さん、その妹さん、そして蒲池さん。
製麺所がラーメン屋をやるというのは、魚屋が寿司屋をはじめるようなもの。技術的に大きな隔たりがありそうだが、いきなりできるものなのだろうか。
「スープはまったくのオリジナルです。うちの従業員は余所のラーメン屋で働いたことがないですから。かあちゃんは漁師の娘だし。もともと麺の販売をするために、自分でチャンポンなんかを作って食べて、麺の食感を確かめていたんです。それがおいしくて、配達から帰ってきたら毎日作って食べていた。 これは売り物になるわいと」
この話だけ聞くと素人料理の延長線のようだが、もちろんそこから長年かけて味を磨き上げた一杯が、現在のラーメンやチャンポン。
スープもタレも一番軒だからこそのオリジナルの味になっているのは、実際に食べてよくわかった。
味のベースとなる豚骨スープは、製麺所内にある巨大な釜でじっくりと炊かれたもの。ラーメン屋の規模に対して、麺とスープを作る設備が贅沢だ。
しっかりと下茹でをしてから長時間炊いた豚骨のスープだからこその、臭みのないクリーミーな味。
ようやくラーメンをいただきます
「おかげさまで、やっぱり流行りましたよ。忙しかった。でも楽しかった。一番軒を始めた時は、まだ麺の販売もあったから、私は昼間そっちをやります。母ちゃんが昼の店をやって、私が中継ぎで入って、夜中は妹と、交代でやっていました。今は午前2時頃までの営業ですが、当時は3時とか4時に、営業を終えた店のマスターとかで満員になるんです。
毎日15時間以上働いていました。もう気力ですよ。今は製麺が自分の店の分だけなので、いくらかゆとりがあります」
これが一番軒のラーメン。なんと450円というワンコイン以下!※夜11時以降は500円
ざっくりとした博多らしい細麺の自家製麺、そしてこってり濃厚という感じではないのだが、薄っぺらさがまったくないしっかりとしたスープがうまい。
「店が順調だったから、本当は次の店をすぐに展開したかった。でもこの製麺工場を建て替えた頃、運送会社時代の同僚が保証人になってくれと来たんです。自分の借金もまだある頃で、それがアウトですよ。結局私がほとんど払うことになりました」
ここまで大変な道程が続いてきたが、さらなる予想外の試練が体の内側からやってくる。
「51歳のときには胃を全摘しました。10年前には3センチの膀胱がんを内視鏡でとっています。ある日、真っ赤なおしっこがでて、宣告を受けたくないから2年間放置してね。ようやく思い切って近くの病院にいったら、すぐ大きな病院にいけと。今はすっかりよくなりましたが」
ひーーーーーーー!
ラーメンと並ぶ人気メニューのチャンポンは、こんなに具だくさんでも600円(深夜680円)。
スープはラーメンと一緒だが、味の印象はかなり違う。食べごたえのあるモチっとした麺が最高。
「製麺所も一番軒も借金をして始めましたが、子ども3人を大学出すことができて、結果的によかったですね。 ただ……大変でした。
大変でしたが、眠気を我慢してトラックで走った経験に比べたら、店で働くなんて楽々です。性に合っているんでしょうね。ただし、私が麺を配達していた店は、もう一軒も残っていません。飲食店は厳しいですよ。
今は店の建物も古くなって、客足が落ちる一方です。4枚あるドアも1枚しか空きません。それでも細々ながらここまで続けてこれたのは、好きだからですね。好きでなければだめなんです」
この店を紹介してくれた友人から、ファンが多いお店だとは聞いていたが、その理由がよくわかった気がする。
「ちゃんぽんの替え玉にラーメンの麺を入れると美味しいわよ」
ちゃんぽん用の麺で作る焼きそばも香ばしくてうまい。次に来た時、何を注文するか迷うな。
どんな料理にも、味を構成するレシピと、その味に至った歴史がある。レシピとレキシ。
レシピは結果であり、歴史はその過程。野球やプロレスといったスポーツのレポートでも、試合結果と観戦記が存在し、後に記録と記憶が残る。
料理は人が作るものだから、そこになんらかの歴史がある。舌で感じる味に加わる、味わいだ。もちろん歴史は知らなくてもいいものだし、歴史があるから美味しいとか正しいとかいうものでもない。
それでも一番軒に関しては、その歴史に触れることができて、本当によかったと思う。
ごちそうさまでした!
取材協力:一番軒
住所/福岡県福岡市中央区梅光園1-2-33
営業時間/11:30~翌2:00頃
定休日/日曜・祝日
この記事では店の歴史や蒲池さんの生い立ちに絞って書かせていただいたが、製麺の方法やスープ作りのコツなども丁寧に教えていただいた。社会科見学、最高だ。
インタビューの録音を聴いていたら、私の腹がギュルギュルと何度も鳴っていた。何の情報もなしに食べても充分うまいラーメンやチャンポンだとは思うが、じっくりと話を伺ってからいただいた一杯は、空腹とあわせて最高に美味しかった。
おかあさんが作ってくれた隠しメニューの野菜ラーメン。「そんなのあるの!」と蒲池さんが本気で驚いていた。