餃子の野菜ぜんぶ抜く
まずはみんな大好き「餃子」から大事なものを抜いてみよう。
餃子にとって大事なものはなにか?とレシピを見て気付いたのは、「肉じゃない」ということ。
例えば冷凍餃子などの成分表示を見ると、まず一番に書かれているのは白菜・キャベツといった野菜である。つまり、餃子に最も含まれていて、最も大事なのは野菜なのだ。
子供に「餃子の材料買って来て」とラフなお使いを頼んだ結果みたいな。
野菜を抜いた結果残されたメイン材料は、豚挽肉と餃子の皮。
これが池における在来種みたいなものである。よく分からないが。
こねる前から明らかに材料が足りてない。不安。
野菜をぜんぶ抜く以外は同じ手順ということで、ニンニクやその他調味料は普通に入れて、挽肉に粘りが出るまでこねまくる。
この時点で、早くも「普段、餃子を作ってる風景」といま目に見えているビジュアルに大きな乖離が生じていて、不安。
番組の『池の水ぜんぶ抜く』でも、本来池が満々とたたえているべき水が無くなった時に「え、これ大丈夫なん?」と不安な感じがするのだが、そこのところは料理も同じ。抜くと不安、は全てに共通する真理なのかもしれない。
こねた肉を皮に包んで、あとは焼くだけ。簡単過ぎて怖い。
あと、いつも餃子を作る時は大量に白菜やキャベツ,ニラを刻んで水気を絞って…という面倒な作業があるのだが、そこを完全に抜いているため、調理が簡単すぎる。
普段餃子を作るとここまで1時間ぐらいかかるのに、野菜を抜くことで、包むまでの工程わずか5分。
あとはもうフライパンで蒸し焼きにしたら、野菜ぜんぶ抜いた餃子の完成だ。
ナポリタンのケチャップぜんぶ抜く
続いては、ナポリタンから大事なものをぜんぶ抜いてみようと思う。
ただ、先の餃子の要領で分量的に最も多いものを抜いてしまうと、間違いなくパスタ抜きの、ケチャップ炒めになってしまう。
全て満たされているように見えて、実は大事なものが欠けている図。人生訓的な匂いすらしてくる。単にケチャップが無いだけなのに。
そこでさらに考えを進めよう。
パスタを抜いたらケチャップ炒めになるということは、つまり、ケチャップこそが重要なのではないか。
ナポリタンという概念にとって、ケチャップこそが池の水なのだ。
ナポリタンの材料とパスタを炒めてるけど、白い。いいのか、という気分になる。
以前に料理漫画で「ナポリタンを作る時はまずフライパンでケチャップを煮詰めるのがコツ」というのを読んで以来、忠実にそこは守っていたのだが、その分の手間は無し。餃子ほどの簡略化はないが、でも、やや簡単にはなっている。
あと、ケチャップ抜きの分だけ塩・胡椒を強めに振っておいた。
最初から味が無くてマズいと分かっている料理を作るのは本意ではない。単に「抜いたらどう違うものになるか」が知りたいだけなのだ。
ハンバーグの肉ぜんぶ抜く
ここまでの2つはまだ「不安だけど、でも、ぜんぶ抜いてもギリなんとかなるんじゃないか」という、やや余裕があったと思う。
もっと思い切った、構造的に抜くの無理だろ、ぐらいのやつも抜いてみたい。
付け合わせのトマトやブロッコリーまであるのに、肉がない。そして真ん中にパン粉。この光景を素直に感情表現するなら「悲しい」だ。
ということで用意したのが、上記のハンバーグの材料である。
そう。挽肉がない。つまり「ハンバーグの肉ぜんぶ抜く」である。
ここまで来るとさすがに完成形が見えない。
本来の挽肉の分量をすべてつなぎのパン粉に置き換えてみた。グラムにするとパン粉約150g。
挽肉と言えばハンバーグを構成するほぼ全てであり、絶対構成因子だ。
しかしハンバーグにはまだ強い味方がいる。つなぎの部分だ。
ハンバーグのつなぎとして使うパン粉を挽肉の分まるまる置き換えてしまうことで、肉を抜くことは可能なのではないか。
する必要はないだろう、と思いつつも、こねたタネを手のひらに叩きつけて中の空気を抜く。でもこれパン粉なんだ。
大量のパン粉に炒めたタマネギと卵を加え、さらに塩・胡椒・ナツメグで味付けしながらよくこねる。水分が足りないので牛乳も少し足してみた。その水分がパン粉全体に行き渡るように、しっかりとこね続ける。
ここまでくると、物足りなさとか不安感を通り越して、もはや虚ろだ。
肉をぜんぶ抜いたハンバーグを作る作業は、虚無なのだ。こねて肉が手にへばりついてくる感触もないし、肉の脂でベトベトになることもない。ただパン粉とタマネギの固まりをこねてハンバーグの形にしただけだ。むなしい。
ところが、フライパンで焼き始めると状況は一転する。
フライパン上で急激に増すハンバーグ感。たぶんパン粉とタマネギにも、自分たちに今なにが起きているか分かってないと思う。
写真を見て判断していただきたいのだが、どうだろう。これ、もしかしてハンバーグかもしれない。
焼くのにバターを使ったために動物性の香りも加わり、タマネギがやや焦げた香ばしさもあり、えー、つまり要するにこれはうっかりするとハンバーグなのだ。
肉抜いてみたけど、うーん、ハンバーグなのか。
ぜんぶ抜いた料理はどうなったのか
ともあれ、大事なものをぜんぶ抜いた3品、できあがったところで試食してみよう。
見た目にはあまり不安のない(ナポリタンが白いけど)のが逆に軽く不安。
まずは野菜ぜんぶ抜いた餃子から。
とにかく作るのが死ぬほどラクだった餃子。もしこれで充分に餃子として成立するのであれば、今後はこのレシピでやっていってもいいと思う。
この時点では餃子以外の何者でもない餃子ビジュアル。白飯くれ。
なにより、成分表示から「餃子で大事なのは野菜」と言ってみたものの、やはり餃子は肉があればいいんじゃないかとも思うのだ。
野菜抜きでも餃子は餃子だろう、と。
食べた感想は主に表情で表示しています。
うーん、いや、やっぱり餃子は野菜が重要だった。
まず、水分がない。いわゆるジューシーさとかそういうものが無くて、基本、パサ…ボソ…とした食感。
そして味も肉肉しすぎてつらい。普通に豚肉だけ食べてもそんな感じはないのに、野菜抜き餃子にすると肉の味がキツく感じるのだ。不思議だけど。
結論として、野菜をぜんぶ抜いた餃子はナシだ。
ナポリタンからケチャップぜんぶ抜くと、普通になる。
次はケチャップぜんぶ抜いたナポリタン。
けっしてマズくはない。ナポリタンだと思って食べると明らかにあのトマトの酸味とか甘味が足りてないのだけれど、でも、こういうものかと思えばありかも、ぐらい。普通だ。
そして妙なことに、味わいに既視感があるのだ。今までの人生でそんなもの食べたことないのに、でも食べたことがあるような。
なんだろうと思って突き詰めて考えると、アレだ。ほか弁やコンビニ弁当の隅っこに緩衝材的に入ってる白いパスタ。アレの具がいっぱい入っててる版じゃないか。やっぱり普通だ。
肉をぜんぶ抜いたけど、とろけるチーズを乗せたハンバーグ。
最後に、ハンバーグの肉ぜんぶ抜いてみたやつ。
具をこねている最中はただ空虚だったパン粉とタマネギが、最終的にここまで仕上げてきたというのがすごい。
世界を「ハンバーグ」と「ハンバーグ以外」の2つに分けたとしたら、これはハンバーグだ。少なくとも見た目だけで言えば間違いない。
半分に割ってはじめて「ああ、これ肉抜いたんだった」と気付く。みっちりとパン粉。
では味はどうかというと、これがなんと衝撃的なことに、ややハンバーグなのだ。そしてさらに驚くことに、わりと美味い。少なくともマズくはない。
食感はややボソボソしているものの、しっかりと表面を焼いたのでサクッとした感じがある。固めで密度のあるパンっぽい中に、タマネギの甘味とコクがある。それにチーズがかかってるので、要するにタマネギ味のチーズパンって感じ。
なにより、調味料としていれたナツメグがやたらとハンバーグっぽい風味を出しているのだ。
まさかの勝利。想定外すぎて本当に驚いてます。
肉を抜いても、パン粉にナツメグが入ってたらややハンバーグ味になるという結末。
これはどういうことだろう。池の水をぜんぶ抜いたら底のヘドロからまだ水の入った金魚鉢が出てきて、人工的だけどそれも池と言えなくもないんじゃない?みたいな話なのか。
その例えが正解なのかも分からないが、それぐらい困惑しているということだけでも伝わって欲しい。
料理から大事なものを抜いたらどうなるか、というだけの実験が、まさかの美味しいやつを生み出すという意外な結果に。
ハンバーグの肉抜きを越えるとしたら、もう「焼き魚から魚を抜く」ぐらいしか思いつかないのだけれど、そこから何がどう残るのかは見当もつかない。
肉を抜いたハンバーグ、もしかして自分の舌がおかしくなってるんじゃないかという疑念もあったので妻にも試食してもらったのだが
「お弁当にこれの小さいのが入ってたら、ハンバーグかどうかは分からないけど普通に美味しいやつとして食べてしまうかも」
とのこと。やはりちゃんと美味しかったようだ。
あと、ナポリタンのケチャップ抜きに関しては、あとからケチャップかけて食べたらやっぱりそっちの方が正しく美味しかった。ケチャップは抜かないのが正解だ。