“球状のもの”、“丸い砲弾のようなもの”、“赤錆びた大きな球”。
この3つ、実は同じモノを指している。いずれも、磯子区にある八幡橋八幡神社の境内にある大きな工作物を表していて、それがなにか知りたいというキニナルから抜き出した言葉なのだ。
すごいインパクト! 謎の球体とご対面
舞台となるのはJR根岸駅からほど近い神社。
根岸駅から向かうと、掘割川(ほりわりがわ)を渡る直前にある八幡神社だ。
大通りに面しているが、境内は喧騒を感じさせない
この神社は、551(欽明天皇12)年以前からこの場所で誉田別命(ほむたわけのみこと/応神天皇のことで、八幡神社の祭神)を祀っていた神社に端を発する古いお宮なんだそうだ。
境内には立派な木が何本も生えていて、落ち着いた雰囲気が漂う場所だ。
1872(明治5)年に建てられた社殿は今でも健在
問題の「大きな球」があるのは、社殿向かって左側。
大きなケヤキの木に寄り添うようにデンと仁王立ちしている。
なんてインパクト。一目で“アレだ”と分かるシルエット
実際に目にすると、なるほど不思議なモノで皆さんがキニナルのもうなずける代物だ。
誤解を恐れずに言えば、なんとも不気味なほどの存在感がある。
中央のプレートには「御大典記念」という文字とともに、第10代横浜市長・有吉忠一の名前が彫られている。
ゴツゴツした石塔にはバラ線までまかれていた
宮司さんを直撃!
手始めに、この神社で宮司を務める関口正幸さんにお話を聞いてみた。
率直に球の正体について質問してみると、「よく聞かれるんですけど、分からないんですよね」と苦笑い。
社務所で宮司さんに話を伺った
碑そのものは、昭和天皇の即位を記念して有志から贈られたものだそうで、したがって昭和初期に建てられたものだろうとのこと。ちなみに、昭和天皇が即位の大礼を挙行したのは1928(昭和3)年のことだ。
穴の空いている箇所も。下から見る限り、中はからっぽだ
球の正体については、関口さん自身も調べたことがあるそうだが、記録が残っておらず把握していないらしい。
ただ、「いくつか説は聞いています」とのことで、3つの可能性を聞かせてくれた。
まず一つ目は、キニナルにもある海に浮かべるブイ(浮標)という説。二つ目は戦争で使われた機雷だというもの。最後のひとつは、染めを施した絹織物を洗うのに使う、言わば洗濯機だったという説だ。
正面以外にも、何枚も石碑が付けられていて有志と思われる名前が
どれも興味深いが、天皇陛下とは関係が薄いものばかりで謎が謎を呼ぶといった感じ。
関口さんからは「かつては球の上に鳥の像があったんです。ただ、1950(昭和25)年ごろに盗まれてしまった」という情報も聞くことができたが、球の正体は分からず。
このてっぺんに鳥の像があったそうだ。ますますミステリアス
もうひとつの球体に会いに
とはいえ、一度はお蔵入りとなったこのキニナルだ。そんな簡単に答えは見つからない。
続いて向かったのは、キニナルにある堀ノ内稲荷。南区にある小さなお稲荷さんで、ココにも同じものが置かれているというのだ。
住宅街の中にあるこぢんまりとした神社だ
赤い鳥居をくぐってみると、確かに似たような球形の物体が目に飛び込んできた。
なるほど確かに似ている。果たして同じものなのか
ただ、パッと見で違いがあるのも分かる。
こちらは錆びておらず、シルバーの外観を保っている。こちらのが新しいモノというのが第一印象だった。
コチラも中は空っぽ
宮司の近藤さんに聞いてみると、意外にもこちらは簡単に正体が判明する。
「あれは太平洋戦争のころの機雷です」とのことで、1950(昭和25)年に戦没者慰霊のお社を造ったことに関連して奉納されたものなんだそうだ。
宮司さんが持っている1948(昭和23)年の写真にすでに写っているというから、信憑性もありそう。
機雷説は八幡様の方にもある説だが、いかんせん時代が違う。あちらは昭和初期、こちらは戦後。仮に八幡神社のものが機雷だとしても、直接的な関連があると考えるのは難しいかもしれない。
歴史のプロに聞いてみる
ここからは専門家に尋ねたり、図書館で資料を探す地道な調査。
まずは、神奈川県立歴史博物館に写真や宮司さんの話を伝え、知っていることがないか聞いてみた。
神奈川県立歴史博物館には電話とメールで取材対応をしてもらった
ところが、返ってきたのは「こちらでは分からない」という答え。
しかし、有吉忠一の名前が刻されていることから、「横浜市史資料室に有吉氏に詳しい方がいる」というヒントももらうことができた。
というわけで、今度は市史資料室へ。
対応してくれた研究員の松本洋幸さんは、有吉について調べた際に現地にも行ったことがあるそうだが、「あれがなにかは分からないです」。
“御大典記念”の文字の横に“正三位勲二等有吉忠一”とある
有吉の名前が入ってはいるが、彼や市が直接関与したというよりも、一般の有志が造った記念碑に、依頼を受けて一筆入れただけではないかという見解を聞かせてくれた。
図書館で資料と格闘
残念ながら、神奈川県立歴史博物館でも市史資料室でもハッキリした答えを見つけることはできなかった。
完全にベールで覆われた存在、というよりは、あの記念碑を専門的に調べていない、というのことのようだ。
ということは、資料を探せば答えに近づける可能性は残っている。
図書館に向かい、磯子区の歴史を記した本を中心に調査を続行してみた。
中央図書館で資料を探す
区制50周年記念事業として作られた「磯子の史話」では、八幡橋の八幡神社を滝頭八幡神社として紹介している。
神社の縁起や歴史について書かれているのだが、その中であの記念碑に関する記述を見つけることができた。
それによると“昭和の代になり、五年六月には、御大典記念碑が建ちました”。
それ以上の情報はなかったが、具体的な建設時期が書かれていたのだ。
1930(昭和5)年に建てられたという記述が見つかった!
今度はこれを元に、当時の横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)を探ってみた。
しかし、残念ながら、見落としがない限りは、この記念碑に関する記事は発見できず。
続いて手に取ったのは、「磯子のれきし」(磯子小学校百年祭実行委員会)という本。
この本でも、八幡神社について2ページだけだが、紹介がある。
その項目の最後の最後に、“漁師の人たちが奉納した大きなブイ(浮標)が石塔の上にのせられています”という文を発見。
球体の正体はブイ!?
まさしくこれだ! というところではあるのだが、なぜ天皇陛下即位の記念という形でブイを奉納したのかには触れられていない。疑問は残ったままで、スッキリ解決というところまでは至ることができなかった。
取材を終えて
今回の調査では、残念ながらここまでしかたどり着くことができなかった。
唯一、資料として登場したのはブイ説で、水運が盛んだった掘割川のすぐそばということも合わせて考えると、これが一番有力な印象ではある。
でも、時代に多少の差はあれど、よく似た機雷が存在したのもキニナルところだ。
昭和初期という、歴史的に見ればそれほど古いものではないのに、なかなか正体のつかめない不思議な球体。その姿形と相まって、なんともミステリアスな存在であった。
その謎を解くべく、今後も引き続き調べていこうと思う。
―終わり―