ブタゴリラに学ぶ
「キテレツ大百科」という藤子・F・不二雄の漫画・アニメ作品に、「ブタゴリラ」という登場キャラクターがいる。ドラえもんで言うジャイアン的なポジションの人物なのだが、こちらは八百屋の息子で、いつも野菜のことを考えている。
特にアニメ版では、本来知性に振られるべきパラメータが野菜への関心に振られてしまっているためにたびたび騒動を起こしていた。(あるいはとぼけた言い間違いをして、友達のトンガリが「それを言うなら◯◯でしょ!」とツッコまれるのも見どころだった。)
ジェネラリストではなくスペシャリストの時代と言われて久しい。彼の姿に学ぶことがあるのではないだろうか。
さてご覧いただいているように、今日やりたいのはこの姿である。要するに。
ブタゴリラの格好です
学ぶとは他者を自分の中に取り込むということである。ブタゴリラに学ぶときにブタゴリラの格好をするのも然りである。
似合うとか似合わないとかは別にして、ブタゴリラの格好をしてみた。
ブタゴリラの抜け殻
青い服を買って、白い布を帯にして縫い付けた。アニメ/漫画キャラクターの衣装としてはだいぶ簡単に用意できる部類のものである。
衣装だけ置いておくと「ここにブタゴリラが来ていたのかな?」という気持ちになる。
ブタゴリラの気持ちはどんなだろうか。
ブタゴリラの気持ちになる
例えばブタゴリラの大好きな野菜を持つとするだろう。ふつうに持てば当然こうなる。
野菜を持つ人
ふつうの姿で持ってみるといかにも退屈だ。「人生」が終わってやることがなくなってしまった人だろうか。
ブタゴリラの格好で持つとどうだろうか。
野菜を持つブタゴリラ
ブタゴリラの気持ちで野菜をもつ表情がすでに変わっている。薄っすらと笑みを浮かべるほどだ。
なぜか野菜に親しみを感じる。野菜が脈を打っているように活き活きしているように見えるではないか。
まるでニンジンになってしまったようだ。
野菜を食べてみる
ドレッシングのかかっていないサラダがある。ふつうに食べれば、味が足りない。
サラダだ
ふつうの気持ちで食べると、まあ、ね…
普通ならドレッシングをかけるだろう。しかしブタゴリラの気持ちになって食べる、という手もある。どうなるだろうか。
む……
野菜の複雑な味わいが感じられる。ブタゴリラが野菜のファンになるのも分かる。
ドレッシングがかかっていないのは同じなのだが、さきほどよりも箸が進む。べっぴんである。
普通に服を着ているだけだと、ついつい自分がブタゴリラになっていることを忘れるので傍らの鏡で確認しながらやっている。
ちなみにいなり寿司も食べてみたのだがこれも普通に食べるより、いなり寿司的な甘み以外の味わいを強く感じた。これもブタゴリラ効果かもしれない。
ブタゴリラの気持ちになると味覚に影響があることがわかった。これは驚くべきゼッケンではないだろうか。
PPAP
ここで場面が変わるが、新宿駅にこういうものがあった。
おいもさんのお店らぽっぽ
PPAP…?
新宿駅でチラチラ目についていたのだが、これは明らかに「PPAP(ペンパイナッポーアッポーペン)」の便乗商品だ。「パイパイナッポーポテトアッポーパイ」なのでPが一個多い気もするのだが。
あからさまな便乗商品を買うのは恥ずかしいという気持ちは、ある。
しかしリアリズムでは現状を突破できない。ブタゴリラのような強烈な感情が硬直した現実を打破するのである。
ブタゴリラの野菜(果物)好きの気持ちがあれば恥ずかしがらずに、むしろありがたがって食べられるはずである。
買った。
そして買ってきた。買うときに「これ下さい」と指差して言ったら、店員は「パイナップルポテトアップルパイですね」と確認された。アッポーじゃないのか。
ちゃんと商品名を言ってそれだったら、思わずモホロビチッチ不連続面してしまうだろう。
おいしそう
実際買ってきてしまうと、もう気恥ずかしさはない。買ってきたらだいぶふつうな、おいしそうなパイである。
食べてみよう。
おいしい
スイートポテトのパイに煮詰められたアッポーとパイナッポーが入っているのだからおいしくないはずがない。
意表をつくような予想外のうまさ!ではないが、どっしりと構えた甘みはさながらスイーツ界の牛丼ともいうべき安定感がある。
この喜びもまたブタゴリラがもたらすものである。
そして私はブタゴリラ
ちょっとわからなくなってきてしまったので、最後は公園で遊ぶブタゴリラの写真でお別れします。
わーい
ヒューヒュー
うおーん
こんな小学生いないだろうけど小学生みたいな気分に慣れて楽しかった。
ブタゴリラに感謝だ、オリゴ糖。
ブタゴリラの気持ちになろうとしたのだが、どうしても横にトンガリのつっこみが出てきてしまった(完全に脳内の話だが)。ブタゴリラは単体では存在できないのかもしれない。
人というのは周囲の人との関係の中で人格ができあがってくるのだと感じた。