特集 2015年11月20日

ある戦後映像の謎を解く

「マ元帥送る兵隊 昭和26年4月16日」とある!
「マ元帥送る兵隊 昭和26年4月16日」とある!
昨年(2014年)の夏、友人のある"推理"を元に、羽田空港近くを探索した。これがものすごく楽しかったので、その話をしたい。

"推理"の元はある動画。ここに映っているのはどこなのか。いつ撮られたものなのか。

そしてぼくは「人の話聞かなきゃいけないな!」と思ったのでした。
もっぱら工場とか団地とかジャンクションを愛でています。著書に「工場萌え」「団地の見究」「ジャンクション」など。(動画インタビュー

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動画「焼け残った戦後の日本の風景」

まずはその元となった動画をごらんいただこう。Youtube にあった「発掘映像 Coronet Instructional Films 焼け残った戦後の日本の風景」というものだ。
きれいな映像! これいつ頃の撮影だろう? そしてどこだろう?
どうですか。なんだかすごいよね。戦後、焼け残った建物と急ごしらえのバラックの広がる風景と砂塵でけぶる空。

これを教えてくれたのは尊敬する友人、米野さん。Facebook でこの映像に写っている場所に関する推理を披露していた。

ちなみに彼はGPS地上絵仲間でもある。成増にかわいいタイヤキの絵を描いた方だ。
米野さんによって特定されたルート。東から西に向かって移動しながら撮っている。
ともあれ、このモノクロ映像を見たら、だれだって「これどこだろう?」と知りたくなるだろう。

結論から言ってしまうと、羽田空港の西、大田区の弁天橋交差点から羽田二丁目交差点までのルートだ。最寄り駅で言うと京急と東京モノレールの天空橋駅のそばから、京急の大鳥居駅のそばまで。
米野さんによって特定されたルート。東から西に向かって移動しながら撮っている。
羽田空港はみなさんご存じだろうが、このエリアに詳しい人は地元の方以外にはあまりいないのではないか。行ってみれば、ふつうの街だ。

しかし、あの羽田事件の場所、といえば現在50代以上の方は そうなのか! と思うだろう。

あるいはこのすぐ南の多摩川べりは「水曜どうでしょう」の「2011年・原付日本列島制覇」のスタート地点である。といえば そうなのか! と思う人がもうちょっと増えるかもしれない。

ちなみに川を渡った川崎市側の比較的すぐのところに、ぼくは現在住んでいて、今そこで原稿を書いています。

特定の経緯がおもしろい

この場所を特定した米野さん。その推理の経緯がまたすごくおもしろい。前述のリンク先に書かれておられるのでそれをご覧いただけばいいのですが、せっかくなのでここでも詳しく解説しよう。

まずはお店の看板の文字に注目したそうだ。これだけきれいな映像だからこそ得られる手がかり。それにしても良い状態でフィルムが保管されていたものだ(これについては後述)。

目立つのは 00:32 に出てくる「トチヤ理容館」
動画開始から32秒のところに写ってる「トチヤ理容館」。右から左に読む右横書きだ。
動画開始から32秒のところに写ってる「トチヤ理容館」。右から左に読む右横書きだ。
この名前で検索すると群馬県伊勢崎市に「トチヤ理容所」という店があると分かる。(現在はこの映像が話題になったためトップに出てこないかも。最初に書いたように、この推理と後に紹介する現地探索が行われたのは1年以上前のこと)

しかし、地図で見ると道の形が映像と一致しない。ご覧の通り映像ではここを通り過ぎてすこし行くと(02:04 あたり)左にやんわりカーブするが問題の伊勢崎の店の前の道路はどちらかというと右に曲がって行っている。

まあ、道路の形が戦後から今にかけて変わったという可能性もなくはない。なんともいえない。

なんともいえないので、次の手がかり。01:07 あたりに登場する電柱に掲げられた看板だ。
電柱の看板に「伊與田写真館」とある。
電柱の看板に「伊與田写真館」とある。
「伊與田」の「與」は、映像からは読み取れなかったが、検索したら候補に「伊與田」が出てきたそうだ。Google すごい。

で、その現在存在する「伊與田写真館」は、結果的に特定された道から1kmほど離れた場所にある。

離れてはいるが、この地道な発見が、次の手がかりを補強して決定的なものとした。

それは 01:16 の「住吉屋呉服店」だ。
看板の形もかわいらしい住吉屋呉服店。
看板の形もかわいらしい住吉屋呉服店。
店の名前として特徴的ではないので、検索すると品川などにある同名の店がヒットしてしまう。

しかし、その中の一つの店が、さきほどの伊與田写真館のほど近くにあるではないか! それが、ここだったというわけ。
それがこの「住吉屋」。
それがこの「住吉屋」。
米野さんは地図とストリートビューでこの「住吉屋」をみつけ、道路の形などを照合し確信を得たという。さぞかし興奮したことだろう。

いわば立役者であるこの住吉屋。しかし、この店の底力はこれだけではなかった。そして一連の推理・調査から1年後の現在、ある結末を迎えることになる。
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現場大事

見事な推理だ。経緯を見ているだけでぼくは興奮した。

というか「なんだ要するにその米野さんがすごいんであって、お前はなにもしてないじゃないか」てな感じだ。うん、そのとおりだ。

なので、米野さんと一緒に現地調査をしよう! となった。地図とストリートビューで満足してしまってはいけない。現場、大事。近所だしな。
で、行ったのが1年前の初夏。左のオレンジ色のいでたちの方が米野さん。ちなみにみんなうつむき加減なのは地図と動画とにらめっこしてるからです。
で、行ったのが1年前の初夏。左のオレンジ色のいでたちの方が米野さん。ちなみにみんなうつむき加減なのは地図と動画とにらめっこしてるからです。
そんな感じで、他にも友人たちを誘ってこの羽田の道路に行った。そして、ほんとに現地に行くって大事だなあ、と実感したのだ。

ともあれまずは、住吉屋の他に映像と合致した店をご覧いただこう。
00:16 のこの「伊東電機商会」
00:16 のこの「伊東電機商会」
名前は変わっているが、同じ場所に「東光電機」があった!
名前は変わっているが、同じ場所に「東光電機」があった!
03:17 の画面左にある看板に「小田川書店」の文字が見える。
03:17 の画面左にある看板に「小田川書店」の文字が見える。
同じ場所には「小田川商店」が!
同じ場所には「小田川商店」が!
まだ名前を残しているものだなあ、と思った。これって要するにぼくらはまだまだ戦後と地続きの時代にいるってことだ。あたりまえなんだけど、なんかぐっときた。

店もいいが、一同が大興奮したのは、映像冒頭の、道路脇に並ぶ短い柱状のものをみつけたときだった。
動画の最初。道路と、ちょっと低くなった場所に建つ建物との間に柱の列がある。
動画の最初。道路と、ちょっと低くなった場所に建つ建物との間に柱の列がある。
いまもあるではないか!
いまもあるではないか!
ある! あるね!
ある! あるね!
みんな「おー!」って言っちゃった。残っているものだねえ。
みんな「おー!」って言っちゃった。残っているものだねえ。
「うわー! これかー!」って、なった。なんだろう、この興奮。映像でしか見たことのなかった俳優とかミュージシャンに生で対面した感じ?
鉢植が乗ってたりして、現役感ある。
鉢植が乗ってたりして、現役感ある。
これなんかは坂の手すりを固定する台として利用されてる。こういうの、いい。
これなんかは坂の手すりを固定する台として利用されてる。こういうの、いい。
上の写真でもわかるが、ここ、坂だ。柱の列が登場する映像の冒頭を見ても、かなり道路の位置が高いのがわかると思う。
坂を下りていく感じ。
坂を下りていく感じ。
米野さんはこのことも特定の手がかりにしていた。これはきっと橋を渡った後なのだろう、と。
実際、振り返ると橋。見事な推理。
実際、振り返ると橋。見事な推理。
これが「弁天橋」。この橋のいわくについても後ほど。「後ほど」ばっかりだなさっきから。

人の話聞くって大事!

地元の方に話を伺う米野さん。えらい。大人。
地元の方に話を伺う米野さん。えらい。大人。
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冒頭で「人の話聞かなきゃいけないな! と思った」と書いた。

今回あらためて米野さんすばらしいな、と思った。地元の方にお話を聞いてまわったのだ。

これ、ぼく苦手なんだよねー。
終戦の時12歳だったというこの方のお話によって、すごく面白いことが!
終戦の時12歳だったというこの方のお話によって、すごく面白いことが!
自分の第一印象がよくない、って自覚してるんで、どうにも声をかけるの腰が引けちゃう。いや、第二も第三も悪いかもしれないけどそういう話じゃなくて。

でも苦手とか言ってちゃだめだな、って思った。やっぱり地元の人の話はちょう面白い。

道で出会った上の写真この方は、ずっとここで育ったとのこと。うかがったお話が興味深かった。

「とにかく戦争終わったときはこの辺は焼け野原」

「ウチの住まいはもっと向こうで、そこは焼け残ったんです」

「空襲の時は、もっと遠くに避難していて、こっちにもどってくると、道路の電柱なんかが焼けてて。でもウチは残ってた」

「川の脇は強制疎開されて、そこで焼け止まった」


などなど貴重なお話を。

で、映像をお見せして、かねてから分からなかったことを質問してみた。
00:45 あたりで登場する、この立派な建物。看板があるが、どうしても読めない。気になる。
00:45 あたりで登場する、この立派な建物。看板があるが、どうしても読めない。気になる。
「この立派な建物は何でしょうか」

「それはね、旅館」

「おおー! なるほど旅館かー!」

「いまはホテルになってる」

「旅館がホテルに!」

「角まで旅館だったんだけど、オーナーが亡くなった後、財産分与で分かれた」
だいたい同じアングルから見た現在の姿。「エアポート イン」の看板が見える。手前の建物まで旅館だったとのこと。
だいたい同じアングルから見た現在の姿。「エアポート イン」の看板が見える。手前の建物まで旅館だったとのこと。
映像の当時は「サツキ旅館」という名前だったようだ。それがその後「空港旅館」という名前になり、現在はその流れを汲んで「エアポート イン」。おもしろい。
さきほどの弁天橋近くの列柱の後ろに建っているお宅の扉を叩く米野さん。えらい。すごい。見習いたい。
さきほどの弁天橋近くの列柱の後ろに建っているお宅の扉を叩く米野さん。えらい。すごい。見習いたい。
こころよくお話ししてくださった。この方は生まれた時からここにいらっしゃるそうだが、この映像の風景は記憶にないという。おそらく物心つくか付かないかの頃ではないかと言っていた。
こころよくお話ししてくださった。この方は生まれた時からここにいらっしゃるそうだが、この映像の風景は記憶にないという。おそらく物心つくか付かないかの頃ではないかと言っていた。
しかしこの場面をお見せすると「お、これはウチっぽいねえ。へー」と感心しておられた。左の家並みがそのお宅だ。くだんの列柱が目立つ。
しかしこの場面をお見せすると「お、これはウチっぽいねえ。へー」と感心しておられた。左の家並みがそのお宅だ。くだんの列柱が目立つ。
こちらの方は、ひとしきり映像をみつつお話を聞かせてくれた後、家のすぐそば、前ページの弁天橋について興味深いお話を聞かせてくれた。曰く「あの橋、あそこで学生運動で人が亡くなったんだよ」と。

後で調べたところ、前ページの弁天橋を舞台に1967年10月8日「第一次羽田事件」というものが起こっている。学生と機動隊が衝突して京大の学生が一人亡くなっている(詳しくはWikipedia「第一次羽田事件」参照)。

さいしょのほうで「50代の方は」云々と書いたのはこれのことだ。当時大きな騒ぎになった。これが後の70年代闘争につながっていく。

で、弁天橋はその名から予想できるとおり、弁天さまがいるそばに架かっていることからきているわけだが、さらに時代を遡ると、その弁天さまは歌川広重の絵に描かれていた。
歌川広重による天保9(1838)頃の「江戸近郊八景之内 羽根田落雁」洲に浮かぶように木々と鳥居が見える。これが玉川羽田弁財天とのこと。
歌川広重による天保9(1838)頃の「江戸近郊八景之内 羽根田落雁」洲に浮かぶように木々と鳥居が見える。これが玉川羽田弁財天とのこと。
全国で大活躍過ぎる弘法大師がここでも例によって自ら制作したといわれる神体があるこの弁天さま。上の絵のように浅瀬に浮かぶ洲のようなところにいらっしゃった。後にここ一帯が埋め立てられるわけだ。飛行場の前は競馬場だった時代もある。羽田ってけっこう歴史変遷すごい。
こちらも広重の「名所江戸百景」から「はねたのわたし辧天の社」。ここが好きだったのかな、広重。左に見える鳥居と社が弁財天とのこと。
こちらも広重の「名所江戸百景」から「はねたのわたし辧天の社」。ここが好きだったのかな、広重。左に見える鳥居と社が弁財天とのこと。
上の絵とたぶん同じ構図の現在。
上の絵とたぶん同じ構図の現在。
しかし弁天さまは現在は別の場所に移動している。元あった場所が空港になっちゃったからだ。

上の鳥居は、同じく敷地から追い出された穴守稲荷神社のもの。この稲荷神社への交通のために京急が線路引いたというぐらい大人気だったが、戦後GHQによって羽田空港が軍事基地となりそのために住民共々強制退去させられた。

この赤鳥居だけは撤去しようとすると事故が発生したりして「たたりだ」ということになり、長い間ぽつんと残っていた。それがようやくここに移設されたのが1999年。なので、ここには鳥居しかない。穴守稲荷自体はまた別の場所にある。

「東京ジョー」の道

さて、なんでいきなり映像の時代から遡ったり下ったりしているのかというと、人の話を聞くのが苦手なぼくでも、広重の絵とか出しておけば、それっぽい記事体裁が整うから。ってわけではない。いや、ちょっとそれもあるけど。

ではなくて、そもそもこの映像が何を目的として撮影されたものなのか、ということとGHQが関わりがあるからだ。
ちょっと前に話題になったこの「後退映像」。弁天橋~羽田二丁目の映像と映像の時代感が似ている。
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この映像も、いったいいつの、どこを撮ったものだろう、と話題になった。

結論から言うと、戦後すぐの新橋、渋谷界隈の映像とのこと。

しかしそれにしても、なぜ後退しながら撮っているのか。その謎が解かれているのがヒマナイヌ川井さんのこちらのページ。1949年のハリウッド映画「東京ジョー」のための映像だったというのだ。詳しくは上記リンク先をじっくりご覧いただきたい。
Amazon で配信されていたので買って観ました。面白かった! ( (c)Columbia Pictures 以下同様)
Amazon で配信されていたので買って観ました。面白かった! ( (c)Columbia Pictures 以下同様)
冒頭、いきなり焼け野原跡の東京の空撮。いったい当時アメリカ人はどういう感じでこの映画を楽しんだのか。
冒頭、いきなり焼け野原跡の東京の空撮。いったい当時アメリカ人はどういう感じでこの映画を楽しんだのか。
この物語の舞台は東京。ハンフリー・ボガート演じるジョーは、戦前銀座で「Tokyo Joe's」というレストランを経営していた。戦後東京へ戻ってきたジョーは、いろいろあって、韓国から日本人戦争犯罪人を脱出させる作戦に荷担させられる。任務を果たしたジョーが東京へ戻ってくると……っていうストーリー。あらすじまとめるのって難しいな。

興味深いのは、作戦を終えて韓国から日本へ戻ってきたジョーは警官と鉢合わせしないように羽田ではない空港に降りようとする、というシーンだ。

その18年後、まさにジョーが避けようとしたその羽田の橋の上で学生と機動隊が衝突するわけだ。
ジョーが降り立ったのは穴守稲荷神社と弁天さまが退去させられた羽田空軍基地。
ジョーが降り立ったのは穴守稲荷神社と弁天さまが退去させられた羽田空軍基地。
で、どうやら弁天橋~羽田二丁目の映像も、この「東京ジョー」のために撮られたもののようなのだ。本編では使われずじまいだったようだが。(先ほどと同じブログで、米野さんからの指摘を元に解説されている

だとすれば、撮影されたのは終戦から映画公開の1949年までの間のどこか。おそらく48年頃ではないか。

そしてマッカーサー登場

そもそも、戦後すぐの映像にしてはこの道路の舗装がやけにきれいなのが気になっていたが、考えてみれば、GHQが羽田の基地からこの道路を通って東京都心へと頻繁に移動していたのであれば優先的に整備されたのも頷ける。

いや、でも本当にGHQはこの道を通っていたのだろうか。それに答えを与えてくれたのは、なんと場所特定を決定的にした「住吉屋」だった。
米野さん、住吉屋に突入。
米野さん、住吉屋に突入。
みんなでお話をうかがいます。
みんなでお話をうかがいます。
ご主人(左)と居合わせたご近所の方。映像を見せると「あーら、なつかしいもの持ってるわねえ!」
ご主人(左)と居合わせたご近所の方。映像を見せると「あーら、なつかしいもの持ってるわねえ!」
「実はこれを見てやってきたんですけど…」と言いつつ映像を見せると、ご主人は「なんでそんな古いものもってんだよー」といい、女性は「なつかしい!」と声を上げた。

「ここは呉服屋さんでしたでしょうか?」と聞くと、「そうだよ」と。やっぱり!

ひとしきりお話をうかがっていたら、やおらアルバムを持ち出してきた。なんだなんだ。
まるでぼくらが来るのを待っていたかのように、さっとアルバムをとりだすご主人。お、なんだなんだ?
まるでぼくらが来るのを待っていたかのように、さっとアルバムをとりだすご主人。お、なんだなんだ?
「ここはマッカーサーが通ったんだよ」

「マッカーサーが!?」

「マッカーサーが通るってんで道きれいに舗装したんだ」

「なるほどー!」
「これ、マッカーサーの車」って!
「これ、マッカーサーの車」って!
そしてまるで孫の写真でも見せるかのようにこちらに向けたのが「マッカーサーが乗ってたクルマ」

「これ撮るときおっかなかったよ。銃持った兵隊がずらっと並んでてさ」

「あれはすごかったよねえ!」と女性。

「こんなのよく撮れましたねえ!」 というと

「ファインダー覗かずにさっと撮ったんだよ。だから構図がこんなになっちゃってる」
「こうやって、撮ってない振りしてシャッター押したよ」
「こうやって、撮ってない振りしてシャッター押したよ」
当時14、5歳ぐらいだった、というご主人。写真の裏に書かれた記録がすばらしかった。Exifデータだ。
それが本記事最初の画像。「マ元帥送る兵隊」「美しく並んだ兵隊」いずれも「昭和26年4月16日」とある。
それが本記事最初の画像。「マ元帥送る兵隊」「美しく並んだ兵隊」いずれも「昭和26年4月16日」とある。
「左上の写真は、力道山ね。凱旋パレード」マッカーサーと力道山が並列扱い。すてき。
「左上の写真は、力道山ね。凱旋パレード」マッカーサーと力道山が並列扱い。すてき。
後に調べたところ、4月16日とあるこの5日前の1951年(昭和26年)4月11日に、マッカーサーはトルーマンと前年に勃発した朝鮮戦争における作戦を巡って対立し更迭されている。

つまり、この写真は日本を去るときのものだったのだ!

ジョーは韓国から戦犯を帰国させたが、同じ朝鮮半島をめぐってマッカーサーはこの道を帰っていったのだ。

マッカーサーが帰国するこの日、沿道には20万人の日本人が詰め掛けたという。そして元元帥を乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に羽田空港から離日した。(Wikipedia「ダグラス・マッカーサー/更迭」より)
「うちは創業が天保だから」というご主人。しかし…
「うちは創業が天保だから」というご主人。しかし…
場所特定の手がかりとなり、エキサイティングな物語の締めくくりを聞かせてくれた「住吉屋呉服店」。

「うちは天保からの店だから」というご主人に 「それはすごい!」と驚くと 「いやもう、古いだけだようー!」と返した。



と、ここまでが、1年前の話。

で、先日またこの道を通ったら…!
なんてこと……!
なんてこと……!
なんと、取り壊しているではないか! 思わず「ええー!」と声が出てしまった。ショック。

この映像の発見がもっと遅くて、地図に住吉屋がなくなったあとだったら、特定できていなかったかもしれない。感傷的な表現になってしまうが、なんというか、ぼくらの探索が完了するまでがんばっていてくれたかのような気がした。

そういえば「東京ジョー」のエンディングは、撃たれたジョーが元妻に「あとで会おう」と言って終わる。そしてマッカーサーはこの帰国後退任の挨拶で「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と言ったのだった。
見せてくれたアルバムには、映像で見たかわいらしい形の看板を冠した時代の住吉屋の写真もありました。
見せてくれたアルバムには、映像で見たかわいらしい形の看板を冠した時代の住吉屋の写真もありました。

いやまったく、人の話聞かないとな!

インターネットにはまだまだ情報が足りないな、と思った。こういう話、たくさん聞いて記事にしていかなきゃね、いまのうちに。

あと、現在のこの通りの映像撮って、戦後と今とを並べた動画つくりたい。
映像の一番最後、羽田二丁目交差点を右折した先の風景は、いま、こんな。
映像の一番最後、羽田二丁目交差点を右折した先の風景は、いま、こんな。

記事中では、一緒に参加した @niyalist さんの写真も使用しました。ありがとうございました。

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