昭和7年の品川の地図
神保町にある有名な古書店で古い地図を買った。昭和7年に発行されたもので、当時の品川区全域の様子がわりと詳細に載っている。
昭和7年(1932年)の地図。場所は品川全域
昔の地図記号にはどんなものがあるのかを調べるために買ったのだが、眺めているうちにそれより気になるものを発見した。
なにか書いてある
ある場所に手書きで印がつけられていた。当時の地図の所有者が書いたものと思われるが、いったいなんだろう? 宝でも埋めたのか?
よく見ると、これ以外にも地図にはいくつかの書き込みがされていた。
地図の発行から八十余年が過ぎ、この書き込みの主が生きているかも分からない。だが、この場所に行ってみれば、何かが分かるかもしれない。
小さな好奇心を胸に、現場へ向かってみることにした。
昭和7年当時からあった京急(当時は京浜電気鉄道)に乗って行く
現場近くに到着。当時はなかったビルが立つ
やってきたのは京浜急行・新馬場(しんばんば)駅の周辺。幹線道路と目黒川が交錯するあたりで、再開発目覚ましい品川駅のやや南に位置する。周囲には古くからのお寺が多く、静かな雰囲気だ。
では、「その場所」へと向かおう。
当時の地図にも記されている東海橋
その下を流れる目黒川
地図によると、その場所は東海橋の北側のたもと付近にある。現在、その場所に立っていたのがこちらの建物。
品川区保健センター
場所は間違いなさそう
館内にフィットネス施設もあるらしい
品川区保健センターの中には、区民の健康増進をサポートする品川健康センターもあった。
1回500円でフィットネス設備を使い放題で、ジャグジーもあるらしい。さらに、区民以外も利用できるとのこと。最高じゃないか。
これはいい施設を見つけた。地図の持ち主に感謝したい。
当時は何があったのか?
でも、見るからに新しい施設。書き込みが指し示しているのはたぶんこれじゃない。調べてみたら、やはり1999年にできた建物だった。
では、その前は何があったのか?
そこで、昭和45年の近隣の地図を手に入れ確認してみると、「産業文化センター」とある。
昭和45年には産業文化センターがあったことが判明。ちなみにこれにも色々書かれてるが、たぶん寺巡りが趣味の人だったんだろうと、こっちの地図は簡単にプロファイルできた
だが、産業文化センターも昭和43年(1968年)にできたものであるらしく、地図の書き込みとは無関係。
いったい何の目印なんだ? 謎は深まる。周囲に土地のいわれが書かれた碑みたいなものがないか探してみたが、特に見当らなかった。
歴史を知る碑はなかったけど、簡保の融資でつくられたものであることは分かった
せめてここに何があったかだけでも知りたい。
近くに図書館があったので、地域資料をあさって調べてみることにした。
品川区の地域資料を探れば何か分かるかもしれない
品川区立図書館には、明治・大正・昭和から現代にかけての地域資料が充実していて、おかげで区の歴史と、昭和初期の世相に詳しくなった。当時は「東京音頭」が大ヒットし、洋風飲食店の「カフェー」が賑わったそうだ。
でも、知りたいのはそんなことじゃない。あの場所に何があったか、である。
品川区の歴史に詳しくなった
さらに探すと、昭和7年の「品川町全図」という資料が見つかった。あの地図と同じ年の、別の地図だ。なんと、ここに答えが書いてあった。
昭和7年、品川町全図。おお、同じ年
品川区役所の敷地だった
品川町全図では、その場所を「品川区役所敷地」と記していた。なるほど、当時からここは区所有の土地で、その後、産業文化センターや保健センターといった公共施設ができたわけか。
「品川区役所敷地」とある
なお、昭和7年は当時の品川町、大井町、大崎町が合併し品川区が誕生した年でもある。もしかしたら地図の所有者は、区役所勤めの役人だったのかもしれない。この土地の開発計画を担当していたとか、そういうことで印をつけたのだろうか。
真相は分からないが、なんとなく所有者の人物像に近づけた気になれて、ちょっと嬉しい。
ちなみに、印は他にもあって、そのいくつかは所有者の身に起きた出来事を想像させるものだったりする。たとえば、火葬場が丸で囲まれている。親しい誰かが亡くなったのかもしれない。悲しい痕跡だ。
火葬場が丸で囲まれている。身近な人が亡くなったのだろうか
他の印も追ってみる
一方、好奇心を掻き立てられる真意不明の書き込みもやはり多い。
次は以下の書き込みの場所に行ってみよう。
通りをなぞった、謎の書き込み
品川駅の西側、現在の高輪台の近辺に記された謎の赤い線。通りをなぞっているようだが、ここには何があるのだろう? 現場へ向かう。
御殿山は、江戸時代に将軍家の鷹狩の休息所があったという場所
そんな由緒ある一帯に、けしからんチラシが。世が世なら打ち首にされてるぞ
歩道の真ん中にでっかい木。環境保全の意識が高い。邪魔だけど
地図を見ると、目的地に向かう通り道には当時、皇族や公爵の邸宅があったようだ。ちなみに現在それらはホテルになっていたり、大学のキャンパスとして利用されている。
こうした場所に用事があったとすれば、かなり地位の高い人物だったのか?
さあ、目的地に着いたぞ。
現場の桜田通りに到着
明治以降、財界人などの邸宅が立つ高級住宅街だった一帯。現在も桜田通り沿いには、高そうなマンションが並んでいた。
現在はマンションが並ぶ通り。地図上ではこの道に赤い線が引かれていた
大物説が浮上
赤い線を引いた場所に家でも建てようとしていたのだろうか? 考えてみれば当時は希少品だったであろう色鉛筆(ダーマトグラフ)を使用していることからも、かなりのお金持ちだったと推察される。
今だったら僕なんて話もできないような大物かもしれないぞ、この人。
中世以前から存在する古道とのこと
足跡をたどるうちに浮上してきた大物説。その疑惑は、最後の書き込みでさらに深まった。
御覧の通り、「岩永邸」と書かれた建物を丸で囲んでいる。
地図からも分かる偉い人の御屋敷感
この「岩永邸」の場所は、現在の目黒駅の西側、行人坂を下ったところにあるようだ。行ってみよう。
行人坂を下ったその先にあったのは
なんと「目黒雅叙園」がありました
目黒雅叙園は老舗の料亭であり、日本国内最初の総合結婚式場。建物は、明治期の実業家・岩永省一氏の邸宅を増改築したものだ。
なお、オープンは昭和6年。つまり、この地図が発行される1年前だ。地図の持ち主はここで結婚式を挙げるか、あるいは料亭デートに利用しようと印をつけたのかもしれない。だとすれば、ずいぶん流行に敏感な人である。
地図の持ち主は、たぶんこんな人
浮かび上がってきた人物像。推理をまとめると
・品川区制と関わりのある公人
・かなりの要職についていた
・お金持ち
・流行に敏感
うん、おそらくとっても偉い人に違いない。
もちろんこれらは全て妄想だ。でも、当たらずといえども遠からず、こんな感じの人だった気がしてならない。
確かにその人が残した地図への足跡。時を超えて同じ地図を手にした者として、先人の物語に思いを馳せるのは、とても楽しい遊びだった。