「合格」の由来と込められた気持ち
神奈川県で免許を取得した方なら一度は訪れたことがあるだろう二俣川の運転免許試験場。
最寄り駅は相鉄線・二俣川駅
キニナル投稿にある「キッチン合格」は、相鉄線二俣川駅北口から商店街を抜け、運転免許試験場へと向かう緩やかな坂の途中にある。
通りの名前もそのまま「運転試験場通り」
運転免許試験場を目指してひたすら道なりに
Y字型の分岐点とその中央で個性を放つ黄色い建物
そこに大きく浮かび上がる「合格」の二文字
正面には赤い日よけの入り口が2つ
「黄色は元気をくれる色。この黄色い建物を見るとほっとするって言ってくれるお客さんがたくさんいるの」と誇らしげに語るのは、40年以上の長きに渡りこの地で飲食店を営んできた井上靖子(いのうえ・やすこ)さん。
大切に育てて来た自慢の店は、神奈川新聞の記事にもなったのだとか
もともと専業主婦だった靖子さんが、自身の離婚を機に飲食店を始めたのは30代のころ。
決して大きくないカウンターだけの店で、少しでも多くのお客さんに来てもらいたいという思いで始めたのが立ち食いそば「合格そば」だったという。
「日本そばもやったし、ラーメンもやった。やらなかったのは、寿司屋くらいかしら」と笑う靖子さん。立ち食いそば店、中華料理店を経て、50代のころにカツカレーや定食などを提供する「キッチン合格」の形に落ち着いた。
女手ひとつ3人の子どもを育て上げるのは相当な苦労だったに違いない。それでも「うちの子たちは頭がいいから、みんな私立の学校に行ったのよ」と冗談めかして当時を振り返る靖子さんの表情は清々しい。
「イヤなことがあったらその都度チャンネルを変えていけばいいだけ。イヤなことは引っ張らないで、いいことだけを引っ張ったらいい」と靖子さんは言う。
カウンター中央には合格を祈願する宮島のしゃもじ
「合格」という店名をつけたのも、もちろん靖子さんだ。
「試験場が近くにあったから『キッチン合格』。『不合格』じゃ、誰も入って来ないから」と、その由来はものすごくシンプル。
2013(平成25)年に神奈川県立がんセンターが移転してくる以前は、店舗から目と鼻の先の場所に運転免許試験場の駐車場があった。そのため、客の中には試験場を訪れる免許所得の受験者も多かったという。
「合格の祈りを込めて作る味、往きも帰りも食べて合格」
壁にかけられた額縁の言葉から、靖子さんの受験生たちへの想いが伝わってくる。店の壁の中央でその存在を大きく主張する合格祈願のしゃもじは、広島にいる次女からの贈り物だ。
「あのしゃもじの下の席でカツカレーを食べると、運転免許試験に合格するのよ」とは「キッチン合格」ならではのゲン担ぎ。
壁には、お客さんと撮ったたくさんの写真
中には、免許試験の際に訪れ、免許の書き換えの度に尋ねて来るお客さんもいるという。何年かに1度訪れる場所。たまにしか行かない場所だからこそ、そこに長く知った店があるのは嬉しいものだ。
「この写真は、私の財産。ほかにもたくさんお客さんとの写真があるんだけど、死んだら全部棺桶に入れてもらうの」と話す靖子さんの口ぶりから「キッチン合格」の長い歴史を築き上げて来た誇りと、それを支えて来たお客さんへの感謝の想いが伝わってくる。
店内のあちらこちらに思い出がいっぱい
靖子さんとお客さんの思い出のたくさんつまった「キッチン合格」そのカウンター席に座り靖子さんは言う。
「40年、あっという間。あれよって言う間に月日は経つからね」
そう、今、靖子さんは厨房には立っていない。
「昨年の桜のころには、まさか引退するなんてことは考えていなかった」と少し寂しそうな表情を浮かべる。彼女の見つめる視線の先で、長女・真由美さんが夜の仕込みのために忙しく動き回る。
親子の絆
「お母ちゃんの話ばっかりしてないで店の宣伝もしてよ!」と威勢の良い声で憎まれ口をたたく娘。その言葉をさらっと流して、母・靖子さんは「よく似てるでしょ?」とこっそり筆者に耳打ちする。
忙しく手を動かしながらも、カウンター席を気遣う真由美さん
真由美さんが「キッチン合格」の厨房に立つようになったきっかけは、靖子さんの病気だった。
もともと靖子さんには、10年前に胃がんで胃を全摘出した経緯がある。病気のせいで体重が以前より20kgも落ちたという。それを乗り越えて厨房に立っていた彼女の身体を、今度は大腸がんが襲った。2014(平成26)年5月のことだ。
必然的に休業状態となった「キッチン合格」。その状況を病気の母・靖子さんと、その母を看病する娘・真由美さんはどのような思いで見つめていたのだろう。
「店を閉めておくのはもったいない。じゃあ、誰がやるかっていったら私しかいなくて」と気負いなく、ごく自然な流れの中で店を継ぐことを受け入れたかのような娘の言葉。
一方で「私の病気があの子の人生を大きく変えてしまったわね」と、少し力なく語る母の姿・・・。2人のその言葉の裏には、さまざまな想いがあるのだろう。再オープンに至るまでの、母娘の迷いや葛藤は想像に難くない。
そして、迎えた同年10月。「キッチン合格」は、真由美さんという新たな「ママ」を迎えて再スタートを切ることになる。
まだ半年ながら、真由美さんの動きは実にスムーズ
「お客さんがね、みんな言うの。『ママ(靖子さん)と同じように動く』って。だから、あの子が店に立っていても違和感がないんじゃない?」と靖子さん。
お客さんとの距離感、商売のやり方、動き方・・・、そうした根底の部分で2人はよく似ているのだという。「その分、ケンカもすごいよ」とは、真由美さんの言葉。
日替わりでメニューを変えるのが、真由美さん流
店を引き継いだばかりのころは言い争うこともあった。
似ているとはいえ、40年以上店を守り続けた母親と、過去に二俣川の商店街で23年間に渡る居酒屋経営経験を持つ娘のやり方では、まったく同じというわけにはいかない。
それでも、今こうして母から娘へとよい形での代替わりを果たすことができたのは、やっぱり互いに認め合い尊重し合う部分があるからだと筆者は思う。
変わらないカウンター席と、新たに取り付けられた緑の暖簾(のれん)
壁に飾られた靖子さんの写真には「ママは元気です」の文字
ママは元気です!
店を真由美さんに渡してからは、めったに店に顔を出すことがなくなったという靖子さん。引退したママの身体を案じるお客さんに心配をかけることのないようにと、写真に「ママは元気です」と書かれた小さな紙を貼った。
「ママ(靖子さん)に会いたい」という声で、懐かしい顔に会いに店を訪れるのも今の靖子さんの楽しみだ。
一方で「キッチン合格」のニューフェース・真由美さんの一日は大忙し
真由美さんが店を受け継いでから、大きく変わった点が2つある。
ひとつはメニューが日替わりになったこと(写真は白身魚煮定食・700円)
こちらはミックス(アジ、鶏カラ、カキ・900円)
頻繁に通ってくれるお客さんのためにも、日替わりで和食中心の飽きのないメニューを提供したいというのが真由美さんの方針。
ごはんは何杯でもお変わり自由!(写真は和風ハンバーグ定食・900円)
新がんセンターの開院以来「キッチン合格」の客層も少しずつ変わっている。
今は、免許試験場の利用者よりも、むしろがんセンターに来られる関係者の方や近くの現場などに来る職人さんたちが多い。
免許試験場の駐車場があった場所には、がんセンターが建っている
病院を訪れる人の事情はさまざま。患者の付き添いの息抜きに「キッチン合格」のコーヒーを飲みに来る人もいる。
靖子さんの病気を機に、店内には健康祈願のしゃもじも加わった
「病気の母を看ていたから、私も付き添い人の気持ちに寄り添うことができる」と真由美さん。母親譲りの明るく気さくな語り口は力強く、なんだかこちらまで元気になりそうだ。
この日、筆者がいただいたのはもりもりパワーがわいてきそうなチャーシュー玉定食(800円)。
おでんと、チャーシューの横に添えられた玉子は全部で3個!
手間ひまかけて作られたチャーシューは、居酒屋時代からの人気メニュー
自慢のチャーシューは、箸でほどけるほどやわらかい
その味わいは、堅く緊張した心までほどいてくれそうな優しい味。いい意味で予想を裏切らない、懐かしい味。想いを込めて作られた料理には、その人の人柄が出ると筆者は思う。真由美さんの料理にも、それが感じられる。
もうひとつの大きな変化は、夜の部・居酒屋営業を始めたこと
現在、営業時間は昼の部が午前10時から午後2時まで、夜の部が午後5時から午後10時まで。お酒を飲む客が相手であることもあり、時間ぴったりで終らないことも多い。
仕込みの時間を入れれば、その労働時間はかなりの長時間に渡る。それにも関わらず「キッチン合格」の新事業として居酒屋営業を始めたのは、やはり真由美さんの経験に基づく強い想いがあるからだろう。
飲食店の立ち並ぶ駅前通りから少しばかり離れたこの地で新規客を定着させることは、簡単なことではない。今は、ランチタイムのお客さんや、昔の居酒屋時代のお客さんが、常連客の中心だ。
暖簾は居酒屋の雰囲気作りのためにと、広島の妹が作ってくれたのだとか
「昼間は体力勝負、夜は気配り。もちろん、この労働時間をずっと続けられるわけではないけど、今は手探り状態でいろいろ試しているところ」と真由美さん。
目下の悩みは、夏のメニュー作りで「暑くなってみんなの食欲が落ちた時に、どうやってそれを促進していくか」がテーマだという。
「キッチン合格」の新しいママの挑戦は、まだ始まったばかり。
真由美さんの作る「キッチン合格」が、どんなお店になるのか・・・。その先はまだ明らかではないが、どんな形であれ靖子さんの時代から引き継がれた、飾らない親しみやすい雰囲気はずっとそこにあり続けるのだろう。
いつまでも変わらず優しくも、少しずつ新しく変化する「キッチン合格」。
免許試験場に足を運ぶことがあれば、ぜひ一度のぞいてみてほしい。
取材を終えて
母から娘へと代替わりした「キッチン合格」。
母と娘、2人のお話を聞きながら、筆者は同居する母のことを思った。
母と娘とは、実に面倒な関係だと筆者は思う。
産まれてからずっと、一番近くにいる母親。
だからこそ、激しくぶつかることも、互いに頼り合うこともある。
靖子さんと真由美さん、2人にもきっと2人にしかわからない複雑な想いと、深い絆があるのだろう。
厨房で忙しく動き回る娘を見て「あたしによく似てるでしょ?」と耳打ちした靖子さんの表情はとても嬉しそうだった。
最後に一枚お二人の写真を・・・と言った時「えっ、写真撮るの?」と慌てたお二人の写真が下の一枚。