特集 2015年3月24日

いい景色を前に私たちは何を考えているのか

旅先でいい景色を見ていた。このとき、私たちは一体何を考えてるのだろうか
旅先でいい景色を見ていた。このとき、私たちは一体何を考えてるのだろうか
旅先でいい景色を見て30分くらいぼんやりしていた。

人はぼんやりいい景色をながめる。なぜだ。あれは何を思ってるんだ。そもそもいい景色でなければいけないのか。色々ぼんやりしてみて分析した。
1980年生。明日のアーというコントのユニットをはじめました。動画コーナープープーテレビも担当。記事はまじめに書いてます(動画インタビュー)

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> 個人サイト Twitter(@ohkitashigeto) 明日のアー

今ぼんやりが肯定されてきている

ぼんやりは脳にいいという記事を最近見た。無意識で脳ははたらいていて色々処理してるらしいのだ。ああ、もっとぼんやりしなければ。

まずはいい風景でぼんやりしてみよう。

昔、マンションの屋上でよくぼんやり景色を眺めていた。あそこに行こう。
いい景色
上京当時よくぼんやりしてた屋上からの景色。大家さんはまだ元気だった
上京当時よくぼんやりしてた屋上からの景色。大家さんはまだ元気だった

いい景色を前に30分ぼんやりする

昔住んでたマンションの屋上に行く。許可をとりに電話した大家さんもまだ元気そうだった。年だけくっちゃってねと笑ってた。

郵便受けを見ると入居者がもうまばらだった。そのうち壊すのだろう。階段を上がるとせきこむほどのノスタルジー。金も希望もなく二度ともどりたくない時代だ。なつかしさのぜんそくになりそう。

数年ぶりに見た屋上の景色はやはりよかった。さあぼんやりしてみるか。

ぼんやりする時間は30分。思ったことはメモしていく。30分経ったなと思ったらやめにする。さあどうなるだろう。
考えたことをひたすらメモ
考えたことをひたすらメモ
思考のメモを色分けして何を考えたか集計しよう
思考のメモを色分けして何を考えたか集計しよう
考えることは意外と景色から離れてない。(薄い藤色のは過去の話3件なんですがグラフからもれてます)
考えることは意外と景色から離れてない。(薄い藤色のは過去の話3件なんですがグラフからもれてます)

意外と景色そのままのことを考える

30分はちょうどよかった。体感時間もほぼぴったりだ。屋上からの景色は音がよくきこえて気持ちよかった。体験としていいぼんやりだった。

もっと脈絡のないこと考えてるのかなと思ったら「給水塔がカッコイイな」とか景色そのままのことを考えていた。もしくはそこから派生した「給水塔はカップケーキみたいでおいしそう」などだ。どこがだ、という気もするが。

どうでもいいことも突如考える

気がかりなことやイヤなことも思い出したりもするのだが突如人生について考えたりしたのには驚いた。

たとえば「俳優としてやっていく決意」という人生に深く関わる選択の前にあったのは「カップケーキみたいでおいしそう」という思いだ。なんの脈絡もない。

そしてなぜぼくは俳優としてやっていく羽目になったのか。いい景色がそうさせたのだとしたら、夜景の前で女性を口説くみたいなことは案外有効かもしれない。(※その後すぐ俳優への道を断念した)
よくない景色
公園の風景。左には公衆便所が見える
公園の風景。左には公衆便所が見える

とくによくない景色ではどうなるのだろう

さあこれで比較対象ができた。今度はべつによくない景色を見る。公園のベンチに座って便所の方を見る。たまにおっさんがやってきて用を足す。緑もあるのでそこまで景色が悪いというわけでもない。ただふつうだ。

いい景色とよくない景色ではどうちがうのだろう。
ここで30分ぼんやりしてみる
ここで30分ぼんやりしてみる
いい景色じゃなくなると景色以外のことが多くなる
いい景色じゃなくなると景色以外のことが多くなる

景色以外のことが増えた

体感時間の書き方が悪いが、30分だと思ったら実際は25分だった。退屈だったのだ。(またトイレも月に3000人とあるが300人のまちがいだ。これは単純に月300日あるとそのとき勘違いしていたからだろう)

景色について考えることはぐっと減った。便所について考えるくらいだ。やはり人はいい景色を前に「いい景色だな」と何回も思うことで時間をつぶしてるのだろうか。

人はどうでもいいことを考える

しかしこの景色はいってみれば日常だ。日常の景色で人はどうでもいいことを考える。

イラストレーターはなぜイラスって略さないのかな」とかだ。それだとイラストと区別がつかないからだ。だがそのときはそう思った。それが日常なのだ。

ラーメンについて「うまみがすごいんだろうな」というのもすごい。口にだしてみよう。めくるめくあたまのわるさである。

また、開始3分くらいで「あと数十年こういうこと繰り返すんだろうな」とかいきなり人生をまとめに入ったり「あなたは今ここで死にますと言われたら悲しい」といきなり死んだりもする。人生に関わる重大なことはなぜか脈絡なく思ったりする。

いやなことも多く思い出す。しかしそのあとすぐさま「斜体って読みにくいな」と字の見え方について苦言を呈したり。

人は自由だ。ここは社会ではなく個人だからだ。個人の中でわれわれはいつだって自由にダイナミックに考える。
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動きのあるものを
ぼんやり見る
駒沢公園のドッグランをながめる。ながめるだけの人たちは他に5人くらいいた。みんな何してるんだろ
駒沢公園のドッグランをながめる。ながめるだけの人たちは他に5人くらいいた。みんな何してるんだろ

ドッグランをながめる女性は悲しい

東京の大きな公園にはドッグランという犬といっしょに遊ぶスペースがある。先日ドッグランをかぶりつきでながめている女性を見た。どことなく物悲しかった。よく似た犬を前に飼っていて彼は死んでしまったのだろう。泣けるなあ。

さあ、あれをやってみるか。
ドッグランを見るのはかなしい。亡くした犬を思ってるように見える
ドッグランを見るのはかなしい。亡くした犬を思ってるように見える
動きのあるものは対象のことばかり考えてることがわかる
動きのあるものは対象のことばかり考えてることがわかる

主にドッグランについて考えていた

21分で切り上げている。早々に飽きたのだろう。

今回は景色ではなくドッグランというイベントである。犬の動きをじっと見ていた。考えることも「学級崩壊ってこんな感じなのかな」「尻の匂いをかいでボール取り合うのがドッグランなんだな」などドッグランについてのことが多い。

犬って細長いな!」と見たままをそのまま書いてしまう自分のバカさを恥じる。

しかしこれはぼんやりなんだろうか。「ぼんやりゲームを見ていた」とかもあるからまあぼんやりか。動きのあるものは思考がそこに集中することがわかった。
他人の建てた家でぼんやり
その辺に建ってる新築の家を前にぼんやりしてみた。「建てたんだよなあ……(誰かが)」
その辺に建ってる新築の家を前にぼんやりしてみた。「建てたんだよなあ……(誰かが)」
時間が経つのはものすごく遅かった。すぐ飽きてる。
時間が経つのはものすごく遅かった。すぐ飽きてる。

うらやましさがイヤな思いを引き出す

他人が建てた家である。のっけから「愛着が全然ない」と言い切っている。

他のデータとくらべても「イヤな思い」が一番割合高い。他人の自慢を見てるようなものだからだろうか。

せめて「おれが建てたと思い込んでみるか」とイメージトレーニングしてみるも「ローンが嫌すぎる」と即座に挫折している。

だがそのあと「他人が建てたんだなあと感慨にふけってみるか」と方向転換したのは見事であるが「なんにもならないな」とここでも挫折している。その後は思考は悪い方へと流れていく。
他人の大事なものを
ながめてみる
デイリーポータルZの古賀さんが大事にしているのはこのアボカドらしい
デイリーポータルZの古賀さんが大事にしているのはこのアボカドらしい
土曜日のお昼、家族団らん中のところ「大事なもの見せてください」とお願いしにいった。お茶が出てきた
土曜日のお昼、家族団らん中のところ「大事なもの見せてください」とお願いしにいった。お茶が出てきた
(……大北さん、いつまで見てるんだろうか)と不安になったことだろう
(……大北さん、いつまで見てるんだろうか)と不安になったことだろう
対象以外のことがふえた。一家が団らん中だったのが大きいと思われる
対象以外のことがふえた。一家が団らん中だったのが大きいと思われる

他人の大事なものをぼんやりながめてみる

他人の大事なものはどうかなと思ってデイリーポータルZ編集部古賀さんに大事なものを見せてもらった。芽を出して育っていってるアボカドだそうだ。

この日は土曜日で一家は団らん中だった。大北さん帰らないなとみなさんに思われながら居座る。

嫌だな」「もう飽きたな」と早々に書いてるのに30分居座る。奥では子供二人がテレビを見ている。旦那さんは食事を作っている。知らないおじさんはアボカドを見ている。

見ているうえに「葉っぱのデザインは誰が考えたんだろうな」「神か」「おれは今他人の家で神の存在を感じているのか」とある。

そのとき私は私の中でダイナミックであった。でももっと早く帰ってあげればよかったと思う。
子どもたち二人の視線が痛い
子どもたち二人の視線が痛い
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見ていて飽きないものを
ぼんやり
洗濯機のぐるぐるは飽きないとシティボーイズのコントであった
洗濯機のぐるぐるは飽きないとシティボーイズのコントであった
意外と夢中になった。ダイナミックだった、洗濯機の動き
意外と夢中になった。ダイナミックだった、洗濯機の動き

洗濯機に人は夢中になる

昔見たコントに「洗濯機でもあればなあ」というセリフがあった。ぐるぐる回るのを見てると時間がつぶれるというのだ。

あれもぼんやりながめるの一つだなあと思ってやってみた。意外と夢中になった。「洗濯物もたのしそうだ」「彼らは自由だ」「ドブ川の鯉を見てるのとどうちがうのだろう」思考は主に洗濯機の動きについてだった。動きのあるものをながめると思考は対象に終始するようだ。

最終的には「パーティーはもう終わりだ」とある。一体どれだけごきげんだったんだ。
子の寝顔でぼんやり
『子供の寝顔を見ると「明日もがんばろう」と思えるんです』そんな話をきく
『子供の寝顔を見ると「明日もがんばろう」と思えるんです』そんな話をきく
30分ながめたことはない
30分ながめたことはない
ここにきて30分超え。やはり心地よいものは体感時間短い
ここにきて30分超え。やはり心地よいものは体感時間短い

本能的に夢中になるものをながめる

最強レベルにながめてられそうなものいってみようと思い、娘の寝顔を30分ながめてみた。よく寝顔を見ては(…よし)とか(…いいぞ)とか思っていたのだが30分はながめたことがなかった。

「どんなにつらくとも子供の寝顔を見たら明日もがんばろうって思えるんだよなあ」とかそんな話もCMで見たことがある。しかしそれはパブリックな場の意見であって、そこにリアルはない。

ためしに30分ながめてみよう。ほら「鼻の息をおれが吸ったら起きるかな」とかどうでもいい方向にいきがちだ。「ファイヤー!とか思ってみるか」にいたってはさらに意味がわからない。大仁田厚の感情をなぜ借りてくる必要があるのだ。

スースーいってるよな」「スースースースーかお前は」これもわからない。人は子の前で本能的に感情を弛緩させられているのだろう。振り返ってみるとしっかりしろとどやしつけたくなる。

そして「飽きないんだろな」とか思っていたのに「飽きてきたな」ときっちり飽きている。我が子の寝顔といえど、30分は長い。飽きるものは飽きる。

しかし体感時間は短いしネガティブな思考も少ない。良質なぼんやりとはいえるのだろう。

人は意外と目の前のことについて考えている

いい景色を前にして、おもったよりも人はずっと目の前のことにとらわれている。海はきれいだなとか空は青いなということをずっと考えている。

体感時間も短いしイヤな思いもしない。いい景色に夢中になっているのだ。

たとえばぼくはテレビゲームをしているとき夢中になって我をわすれる。今回でいう洗濯機的なものだ。夢中になって他のことを考えない。その逆はダメな景色だ。あまり対象について考えない。今回のことでいえば

(夢中)TVゲーム>>洗濯機>>いい景色>>ダメな景色(ぼんやり)

こんな図式が成り立つのではないか。ぼんやりが脳にいいのであれば、ダメな景色のほうがより純粋なぼんやりを得られそうだ。

しかしそれは体験として良いものではない。夢中であるほうがやっぱりおもしろいしイヤな考えも浮かばない。

いい景色を前に人はぼんやりする。イヤな思いをせずに(……犬って細長いよな)と思える良質なぼんやりをもとめて「海でも見に行こうよ」とか言ってるのだ。
「アンテナは物としてでかすぎる」という思いもかなりどうでもよかった
「アンテナは物としてでかすぎる」という思いもかなりどうでもよかった
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