なくなっているのは中学校だけではない。中学校と小学校と幼稚園が全部なくなっている。
今回、帰省ついでに一通り確認しておきたい。
中学校は「湧水の里しおや」に
船生(ふにゅう)中学校跡地を利用して出来た、道の駅「湧水の里しおや」。今年の6月にオープンした。地元の人間の間では、大変ホットな話題である。
校舎があったところ
グラウンドだったところ
お客がたくさん入っているようだ。中学校がなくなってしまった…という感慨よりも先に、道の駅の成功にまずホッとする。
中学校だった名残がある
今回妹と一緒に見に来ている。妹は幼稚園から高校まで僕と全く同じだ。「もう何も残っていないね…」などと話をしていたら、妹が校門を見つけた。
撤去するのが面倒なのだろう
生徒会ポジション
校門を見ると当時生徒会でやっていた「あいさつ運動」のことを思い出す。生徒会が朝早く登校して、門のところで生徒に「おはようございます!」と声をかけるのである。
僕は生徒会に入っていたのだが、今となってはなぜそんなことを率先してやっていたのか全くわからない。
自転車置き場
「あれ、自転車置き場じゃないの?」また妹が発見した。こういうとき目ざとい。
エアーズロックのように盛られた土(たぶん工事用の穴を掘った余り)の向こうに、懐かしいというにはちょっとボロボロすぎる感じの屋根があった。
助走をつけてエアーズロックを一気に乗り越える私
目ざとく上りやすいところを見つける妹
この赤い屋根が駐輪場である
駐輪場を目の当たりにして、僕も妹も少し黙ってしまう。
ここは校内と校外の狭間みたいなところで、いくつもの淡い中学生ドラマが生まれる場所だった。悪いやつは帰らないでだらだらと(わざわざ校内で!)タバコ吸っていた。ラブレターの受け渡し現場を目撃したのもここだった。
僕は軟式テニス部に入っていたが部活が大嫌いだった(絶対にどこかの運動部に入らなくてはいけない)。顧問に見つからないようにコソコソと駐輪所から自転車を乗り出した記憶がある。
たまに部活をやったときは「クレイコートに落とし穴アリ」のルールでやってたりした。テニスに愛情がないからこそできる遊びである
今では屋根の下に建物が出来ていて、危険物置場になっているようだ
道の駅本体
道の駅なので食堂がついている。メニューは徹底してそば押しである。
なんてことのない、ざるそば
まあまあ美味、そばゼリー
新しいピカピカの食堂で、特に感想も出ないような食べ物を食べていると、この場所に深い思い出があるなんてことが嘘みたいである。
道の駅には野菜の直売場もついている。妹がしれっとした顔で晩のおかずに使う野菜を選んでいた。
売られている大根がすべてまるまると太ったうまそうなものであり、さっきまでの感慨が超ぼやけた
「乾しリンゴ」という本当にリンゴを干からびさせただけの食べ物が売られていた
もう一つある建物には、近隣の文化人の作品が展示してある
…などと15年前の自分にいっても何も理解できまい
小学校は生涯学習センターになった
小学校も少子化で統合されてしまった。ただし建物はそのまま残っていて、町の「生涯学習センター」として使われている。
たぶんこういう所を利用するのは高齢者だろう。日本の社会の縮図みたいでぶるっと震える。
今日の予定は「着付講座」と「絵手紙教室」
図工室は「アトリエ」に
図工室はアトリエ、音楽室はスタジオ、と名前だけが変わっていた。中はほとんど当時のままの設備が残されている。
妹はスタジオで「すっげえ良いピアノが置いてある…」と興奮気味に声を漏らしていた。そうか、音楽室のピアノは良いピアノだったのか…。
廊下が広すぎる
この施設の廊下部分はちょっと不思議なくらい広い。
小学生だったら絶対走り回りたくなる広さ
廊下部分も教室として使えるようにしてあるためだ。可動式の衝立が設置されていて、廊下を仕切れる。
「児童が増えすぎて教室が足りなくなる」ことを想定してこういう機能があるのだが、全くの読み違いだったといっていいだろう。
ゴミの焼却炉がそのままのこっていた。当時はなんでも燃やしていた。焼却炉の番は高学年しかやらせてもらえず、名誉職であった
うさぎ小屋は物置に。よくエサを忘れてその辺の雑草をちぎって食べさせていた。みんなそうしていたから、うさぎ小屋の周りでは雑草は育たなかった
通学路
小学校から家までは3キロほど。小学生の足には果てしなく遠い距離だった。僕としては学校そのものよりも、通学路の方が思い出深いくらいだ。
ついでなので、そっちの方も見てゆこう。
学校近くの農業用水路
「こういうちょっとした用水路に足つけて遊んだよね」と話を振ってみるけれども、妹は「そんなことはしていない」そうだ。
最高に気持ちよかった記憶があるのだが、確かに女子はやってなかったかもしれない。すればいいのに、と今でも思う。
この橋の下が僕らの「秘密基地」だった
通学路にかかっている小さな橋。流れている川の水量が少なくて、橋の下が僕らの秘密基地だった。といっても、駄菓子屋で買ってきたスナックを食べるだけだ。
本当は「もっと基地らしいことをやりたいな」と思っていたのだが、基地らしいことなんてやりようがなかった。
「あー、基地にちょうどいいだろうね…」とのこと
僕たちがこんな風に通学路で遊んでいる間に、女子は何をしていたんだろう。
妹に聞きいてみようか。でも女の子特有のなんかドロドロした話が出てきたらやだな。やっぱり止める。
とにかく遠い。奥に見える山のあたりに家がある
活性炭を作る工場のわきを通りぬけてると家はすぐだ
この活性炭を作る工場はちょうどいいお湯を時々排水しており、冬の朝などはそこに手をつけて暖をとっていた。長く苦しい通学におけるボーナスステージである。心の中で1UPの音が鳴っていた。
幼稚園はそば畑になっていた
最後に幼稚園の跡地に向かう。
道路の左側に幼稚園があった
奥の方に見える屋根と柱の構築物は、幼稚園の一部だったような気がするが、もうわからない
何か幼稚園だった名残はないか、と探す。道路の反対側に「塩谷幼稚園」と書いてあるバス停を見つけた。
かろうじて言葉だけが残っていた
中学校のことでさえ古すぎる
自分が行っていたところがなくなってしまったのだが、別にそれほど寂しさは感じられなかった。こういう映像、エピソード、どこかで観たことあるな、ああ、それよく考えたら自分の体験のことだったわ、という感じ。完全に忘れすぎていて、どこか現実感がない。妹も別になんてことなさそうな顔をしていた。
自分の今の生活のことも、10年くらいたてば人ごとみたいに思えるのだろうか。そんなことをふと思った帰郷でした。