

五百羅漢で自分探し

この中から自分を探したい

寺院に行くと、驚くほどたくさんの石像が並んでいることがある。五百羅漢と呼ばれるものだ。
羅漢とは仏教の聖者のこと。本来は尊い存在なのだろうが、ずらっと揃った石像の表情を見ると、とても親しみ深く感じられるものもしばしばある。
数多く並ぶ中から、自分に似ている羅漢を見つけるという楽しみ方もあるらしい。そういうわけで、探してみました。
羅漢とは仏教の聖者のこと。本来は尊い存在なのだろうが、ずらっと揃った石像の表情を見ると、とても親しみ深く感じられるものもしばしばある。
数多く並ぶ中から、自分に似ている羅漢を見つけるという楽しみ方もあるらしい。そういうわけで、探してみました。

1973年東京生まれ。今は埼玉県暮らし。写真は勝手にキャベツ太郎になったときのもので、こういう髪型というわけではなく、脳がむき出しになってるわけでもありません。→「俺がキャベツ太郎だ!」
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石像と向き合う自分探し
五百羅漢のあるお寺は全国にいくつかあるようだが、今回やってきたのは、埼玉県川越市にある喜多院。


創建は西暦830年と歴史がある


格式ある本堂


立派な多宝塔


駐車場のコーンもでかい

ここ喜多院には、天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の約50年間に渡って建立された533体もの羅漢像がある。時間的にも数的にもスケールが大きい。


そばそうめんなるものが気になりつつも


今回の目的はあくまで羅漢


格子の向こうで元気そう


拝観料を払って会いに行こう

客殿などと合わせて見学できる、五百羅漢の拝観料は400円。入口近くの売店にある「そばそうめん」も気になるが、ここは本来の目的を忘れずまずは羅漢さまと向き合おう。


壮観です


高密度なのもうれしい

ずらっと並んでいる羅漢像。数が500以上と多いのに加え、区切られた中にぎっしりと並べられているので、空間としての密度が濃い。そのことで全体として独特の雰囲気が漂う。
深夜に頭をなでると一つだけ温かく感じるものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているという言い伝えもあるとのこと。個人的に両親は健在だが、これだけあれば自分と似ているのもあるのではないか。探してみよう。
深夜に頭をなでると一つだけ温かく感じるものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているという言い伝えもあるとのこと。個人的に両親は健在だが、これだけあれば自分と似ているのもあるのではないか。探してみよう。


山田


小寺


西本


古井

どの像もそれぞれ表情が異なり味わい深い。見ていて思ったのは、勝手に名前をつけたくなるということだ。
像と向き合うと、なんとなく湧いてくる苗字。「なんか山田っぽい」と、根拠なく思えてくる。学生の頃のクラスメイトだったり、語感から自然と浮かんできたりという感じだろうか。
像と向き合うと、なんとなく湧いてくる苗字。「なんか山田っぽい」と、根拠なく思えてくる。学生の頃のクラスメイトだったり、語感から自然と浮かんできたりという感じだろうか。






















笑顔、不審、困惑、疑念、怒り。さまざまに読み取れるものからどんどん命名。それぞれ表情があるのだが、中には特に個性が強い像もあった。















一癖ありそうな顔を並べてみた。転校先の学校に行ってクラスメイトがこんな感じだったら、明日からのスクールライフが不安になるだろう。
それでも最後の坪井は、妻によると「あなたこんな顔して寝てることある」とのこと。
それでも最後の坪井は、妻によると「あなたこんな顔して寝てることある」とのこと。


自分探しってこういうことか

さらには、見ていると苗字以上のものが浮かんでくる像もある。ニックネームをつけてみたくなるのだ。


リーゼント


ムツゴロウ


ビッグダディ


年収

人間の見本市のようでもある五百羅漢。どんな人でもここに来れば、自分を重ねる像を見つけられそうな勢いだ。
最後の「年収」は現代のインターネット広告からつけたものだが、こんな古い像にも通じているからすごい。
最後の「年収」は現代のインターネット広告からつけたものだが、こんな古い像にも通じているからすごい。


江戸時代にもこの驚き方

向き合っていると想像力をかき立てられる五百羅漢。自らしゃべり出しそうなのもたくさんある。

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饒舌になっていく羅漢たち
単体の像でも表情豊かだが、2体が組みになって並べられているように見えるものもある。そこには自然と、2人の間にある言葉が浮かび上がってくる。


「村松じゃないって、松村だってば!」


「屁?俺じゃないって、こいつこいつ!」


「ほーれほれほれ」(自慢)


「原告一部勝訴!」

2体の間に言葉が生じることで見えてくるドラマ。もともと親しみやすい像が多いのだが、さらに人間味があふれてくる。
単体の像でも、じっと見つめていると物言いたげに見えてくるものもある。対話の相手が鑑賞者なのだ。
単体の像でも、じっと見つめていると物言いたげに見えてくるものもある。対話の相手が鑑賞者なのだ。


「…どうすんの、これ」


「どうすんだよ、これ!」

なぜそんなものを手にしているのかは不明だが、言いたいことは伝わってくる。そう言われたところで、僕もどうしたらいいかわからない。
それでいて、謎のシチュエーションを受け入れ、半分達観した表情に見えるのも趣深い。
それでいて、謎のシチュエーションを受け入れ、半分達観した表情に見えるのも趣深い。


「うざいなあ…」


「龍、まじでうざいな…」

かっこいい龍も、実際に頭上付近をグルグルされたら相当うざったいと思う。いつ噛んでくるかわからないし、下手したら口からなんか吐きそうだし。そういう叫びが羅漢の表情から読み取れる。


「龍、ほんとうざいわ…」

龍にからまれている像は何体かあったが、浮かべているのは何とも言えない表情。ファンタジーの世界では憧れの対象になる龍だが、実際やって来られるとこういうことになると思う。


「ちょっと、ちょっとちょっと!」


「カマキリ取ってくんない?」


「いやいやいや、俺のがやばいって!」


「カメムシ!カメムシ!」

石像ゆえに虫がまとわりついてきても自分ではどうすることもできない羅漢。カマキリはまだ子供だけあってそれほど切羽詰まってないが、カメムシはやばい。
時にはこうして自然の偶然性をも使ってメッセージを放ってくるからすごい。
時にはこうして自然の偶然性をも使ってメッセージを放ってくるからすごい。


「ジャーン!」


「ジャジャジャジャーン!」

開いた胸から仏様の顔をのぞかせる羅漢もいた。自慢げにも見える表情がいい。
向き合っているとこうしてペラペラしゃべり出す饒舌な羅漢たちがいる一方、沈黙を守る羅漢もいる。次のページではその対照的な様子を見てみよう。
向き合っているとこうしてペラペラしゃべり出す饒舌な羅漢たちがいる一方、沈黙を守る羅漢もいる。次のページではその対照的な様子を見てみよう。

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内にこもっていく羅漢たち
アグレッシブに感情を表現する像とは反対に、じっとりとメンタル内側に入っていく羅漢もいる。


うつろに空を見つめる


さらに内面へ

体育座りを決める羅漢だ。小学校で体育の授業中に話を聞いたり待ったりするときの体育座りだが、江戸時代の像にもすでにその座り方は見ることができる。


すねてる


完全にすねてる

かなりコンパクトに膝を折りたたんだ体育座り羅漢。表情からしてもただの体育座りを超えて、そこにはドラマが見えてくる。
楽しみにしていたプールの授業なのに、水着を忘れて見学する羽目になったのだろうか。羅漢とは言え、その状況は確かにすねたくもなるだろう。
楽しみにしていたプールの授業なのに、水着を忘れて見学する羽目になったのだろうか。羅漢とは言え、その状況は確かにすねたくもなるだろう。


その翌週も見学

次のプールの時間には水着を持ってきたものの、家の人にはんこを押してもらうプールカードを忘れて再び見学。体育座りもより深刻でシリアスになっている。結局この夏、一度もプールに入れてなければこうもなるだろう。
体育座りと似ているのが、片膝を抱えたポーズの像。こちらは通常の体育座りよりも表情にしっかりと感情が読み取れるものが多い。
体育座りと似ているのが、片膝を抱えたポーズの像。こちらは通常の体育座りよりも表情にしっかりと感情が読み取れるものが多い。


「痛い…痛いよ…」


「あ痛ーっ!」

すねをどこかに強くぶつけて、言葉にならない声を挙げているように見える、これらすね打ち系の羅漢。泣きそうだったり我を失ったりしている表情に共感させられる。
このポーズは羅漢界ではメジャーなものらしく、そこかしこですねを打つ羅漢の姿を見ることができる。
このポーズは羅漢界ではメジャーなものらしく、そこかしこですねを打つ羅漢の姿を見ることができる。


オーバーアクション系


何事もなかったようにやり過ごすスタイル


せつなさで同情を引くタイプか


痛すぎて感情が一周

羅漢それぞれのすね打ち。すねを打ったときこそ、人間の本性というものは見えるのかもしれない。それゆえに羅漢におけるポーズの定番のひとつとなったのだろうか。
個人的にはオーバーアクションが過ぎて、周囲が鼻白む様子が目に浮かぶ羅漢に共感を覚える。
そして、羅漢が痛むところはすねだけではない。いろいろと痛むのだ。
個人的にはオーバーアクションが過ぎて、周囲が鼻白む様子が目に浮かぶ羅漢に共感を覚える。
そして、羅漢が痛むところはすねだけではない。いろいろと痛むのだ。


「なんか…おなか痛いかも…」

腹が痛いタイプの羅漢だ。腹部にあてがう手と、眉間にしわを寄せた表情は、私たちに「拾い食いなどするものではない」という戒めを与えてくれる。


「腹痛?ちょっと、ちょっとだけね!」


「あー、やっぱダメかも」

女子の前でかっこつけて虫とか食べちゃったか。それとも「これ絶対食える!」と、キャンプで変なキノコを口にしたか。
そういう男子が陥りがちなトラップにはまるとこうなるぞと、羅漢は身を以て表してくれている。
そういう男子が陥りがちなトラップにはまるとこうなるぞと、羅漢は身を以て表してくれている。


「あー、無理無理無理…」


そして撃沈

一歩間違って調子に乗っていたらこうなっていた自分がそこにいる。パラレルな自分探しがここにあった。
虫は食べないし、キノコはスーパーで買う。お肉もしっかり火を通して食べよう。羅漢を前に改めて胸に去来するのはそんな思いだ。
虫は食べないし、キノコはスーパーで買う。お肉もしっかり火を通して食べよう。羅漢を前に改めて胸に去来するのはそんな思いだ。







「うわー、ヘビ」



自分探しをするために向き合った五百羅漢。そこにあったのは、人間の全てとも思える表情や感情。どの像にも「わかるわかるー」と、共感を覚えるところがあった。
そばそうめんはおみやげに乾麺を買ってみたところ、その正体はそうめんのように細いおそばでした。
そばそうめんはおみやげに乾麺を買ってみたところ、その正体はそうめんのように細いおそばでした。

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