瓶の透明感にすがろう
インテリアを紹介した雑誌や、雑貨屋などを見るといかにもオシャレだ。こんな部屋に住んでみたいと思ったりもする。しかし、自分の部屋を見てみると全然オシャレではないことに気が付く。恋に恋する女子中学生と鯉に恋する男子中学生くらいの差がある。
理想の部屋
現実の部屋
理想の部屋には透明感のようなものを感じる。光が通りぬけるような透明感がオシャレを生み出しているのだ。一方、現実の部屋は光を遮るものばかり。オシャレか否かの分岐点はそこだ。では、透明感を出すにはどうすればいいのだろうか。
そこで瓶である
上の写真は瓶である。明らかに大量にものが並んでいるのに、オシャレに感じる不思議。これをオシャレと言わず何と言うという感じだ。オシャレとは瓶によって生み出すことができるのだ。
瓶以外はダメ!
たとえば上の写真はプラスチックの容器だ。瓶と同じように透明ではあるが、オシャレさは微塵も感じない。真夏の人ごみの中で砂をばら撒いたような暑苦しさ。瓶は潜在的にオシャレを持ち合わせているのだろう。
オシャレは瓶で手に入る
瓶のある生活
生活のいろいろなものを瓶に置き換えることで、前述の通りオシャレな生活を生み出すことができる。瓶は100均などで売られており別に高い物ではない。オシャレは1個105円で簡単に手に入るのだ。
日の丸弁当が、
オシャレ!
どうだろう。日の丸弁当も弁当箱に入っているより、瓶の方がオシャレに感じる。中身は同じのなのにオシャレ。瓶の透明感のおかげだ。弁当箱の日の丸弁当はリアリティがあるが、瓶に入れることで現実が遠くに行きオシャレと感じるのだろう。
じゃがりこもオシャレ!
「じゃがりこ」も瓶に入れることで、バーで出てくるお菓子のようなオシャレをかもし始める。瓶によって生活の匂いのようなものを封じ込めることができ、オシャレを手に入れることができるのだ。
断然、瓶がオシャレ
何でもオシャレだ!
買って来た物を瓶に入れ替えるだけでオシャレになるというのは、手間がかからず3歳児にでも可能だ。「へ~、部屋はオシャレなんだ~」という夢の会話へと続くストーリーがこんなに簡単にできてしまうのだ。
100円のサラダも、
オシャレなサラダに(夕日バックだとさらにオシャレ!)
もちろん作った物を瓶に入れるというのもありだ。先の日の丸弁当のように手軽な物がオシャレな物へと変貌を遂げるのだ。たとえばフルーチェ。牛乳とまぜるだけで完成する手軽な美味しい食べ物なのだけれど、瓶に入れると手軽で美味しいオシャレな食べ物となってしまう。
作ったフルーチェをタッパーに入れるとオシャレではない
しかし、瓶に入れるとオシャレ!
駄菓子ですら瓶にいれることで見違えるようにオシャレになってしまう。もはや駄菓子ではない。虫取り網を持って走り回る小学生ではなく、朝はスープを飲むという女性が食べていても不思議が無いような一品となるのだ。
駄菓子も瓶に入れればオシャレ!
今後の課題
このように瓶に入れることはオシャレになるということが分かったと思う。ただし問題もある。それはフルーチェの瓶を持って公園で撮影していた時のことである。近所の小学生がその様子を見て「あれ何、気持ち悪い」と会話していたのである。
この撮影をしているときに言われました
瓶の状態では間違いなくオシャレだったのに、僕が持つとそうでもないらしい。たしかに秘密基地に謎のものを持ってきた少年のようになっている。瓶に透明感はあるけれど、その瓶を持つ人にも透明感が無いと、オシャレにはならないようだ。
確かにオシャレでない
しかしである。問題は生活をオシャレにすることであり、持ち手はこの際関係ない。恋愛に於いてはギャップが大切だという話を聞く。部屋はオシャレだけれど、持ち手はそうでもない。このギャップ。新たなストーリーの始まりを感じないだろうか。
感じないな~
瓶はオシャレ
煮え切らないまとめになってしまったけれど、瓶は間違いなくオシャレだ。なんてオシャレなんだとホレボレしながら、撮影したし、その後はいろんなものを瓶に入れて生活している。新たなステップに踏み出せた気すらする。問題はその後。自分も瓶に入ればいいのだろうか。