およそ1km×1kmの範囲の中に、50近い数の町がぎっしり詰まっている。いったいこれはどこだろう。思いっきりタイトルに書いちゃったけど。
少し郊外に行けば今でもこういった地割りを見ることができるけど、なんと都心も都心、新宿区の東側の方にこんな旧態依然とした区割りのエリアが残っているのだ。
これがどのくらいの密集度かを実感するために、以前に当サイトライター三土さんが作った「
くらべ地図」で比べてみた。(
→地図を見る)
同じ縮尺で、それぞれ中心に新宿駅と牛込神楽坂駅を置いてみたのだけど、どうだろう。
たとえば新宿西口にある都庁から東口の伊勢丹あたりまで歩くだけで、このエリアだと市谷山伏町、市谷甲良町、北山伏町、箪笥町、北町、横寺町、神楽坂、白銀町、筑土八幡町...と多くの町を抜けていくことになる。町がマーケットみたいな状態である。
だから、大規模な施設は複数の町に跨がってしまう。小さな町の中を歩いていたら巨大な印刷会社があって、事務所や工場が道を挟んでいくつも建っていた。
巨大な印刷会社があった
事務所や工場が建ち並んでいる
道端に、事務所や工場への道案内の看板があったのだけど、ここに書いてある建物だけでも、市谷E棟と研修会館は市谷長延寺町、左内町第1ビルとC&Iビルは市谷左内町、市谷工場は市谷加賀町と市谷鷹匠町にまたがり、営業ビルと企画ビルは市谷加賀町に建っている。そのほか、周辺の隣接した町にも工場や寮や関連会社が散らばっていた。でもみんな徒歩数分で行き来できる距離。
ひとつの会社がいろんな町に跨がる(マウスオンで町が分かれます)
会社名が町の名前になっているトヨタ町やスバル町と逆の意味で、物のスケールが分からなくなる現象だと思った。
時代を感じさせる町名
もうひとつ、時代を感じさせる、というか、最近にはないセンスでつけられている町名が多いのも目を引く。
江戸時代からそのままかという町名が並ぶ
この中でもたとえば市谷加賀町は、加賀藩主の屋敷があったのかな(正確には加賀藩主前田光高の正室、清泰院の屋敷)、市谷鷹匠町は鷹匠が住んでいたのかな、などと想像できるけど、払方町、納戸町、細工町なんてどんな由来だろう。ほかにも箪笥町、水道町、改代町、揚場町なんてのもある。
いったいどうなっているんだ。とりあえず全体をぐるりと歩いてみよう。
特に変わった町ではない
いきなり結論を書いてしまうと、町が小さいからといって細かく境界線が書いてあることもないし、町の名前が古めかしいからといって鷹匠ばかり住んでいるとか古い街並みが残っているとかいうことはなかった。
とりあえず払方町も
納戸町も
細工町も
箪笥町もごくふつうの街並み
町名としていちばんおもしろそうな払方町、納戸町、細工町、箪笥町と歩いてみた。このあたりは表通り沿いに商店街やマンションが建って賑やかな雰囲気。でも1本裏道に入ると住宅やアパートが建ち並ぶ静かな住宅街だった。
通り沿いはふつうに賑やか
裏に入ると思いっきり住宅地
このあたりの町名の由来を調べたところ、やっぱり江戸時代に住んでいた人々に関係があった。
たとえば払方町は将軍から大名などへの下賜、つまり金品のやり取り業務を担当した役人が住んでいた場所。江戸幕府を会社に例えると総務課の支払い担当と言っていいだろう。納戸町は献上品の管理などを行う部署で同じように総務課の収入担当。
細工町は江戸城内で使う道具などの管理を行っていた、いわゆる用度課の人々が住み、箪笥町は箪笥職人、ではなく、弓矢や槍のことを箪笥と言っていたらしく、そういう武器を作ったり管理する製作課が住んでいたらしい。つまり今の感覚で言えばこのあたり公務員官舎が並んでいたような感じだろうか。
その表通りを挟んだところは南町、中町、北町と、逆に歴史の重さなんてまったく感じさせない町名が並んでいた。
このあたりは町名看板が見つからず
駐車場の看板や
掲示板に書かれたものしかなかった
街並みはまっすぐ短冊状の住宅街
町名に重さはないけど、短冊形に真っすぐ区切られた町内に立ち並んでいる家はどれも重そうで、分かりやすく言うとかなりの豪邸ばかりだった。マンションは低層ながら余裕のある造りの贅沢な物件が並んでいて、駐車場の車もドイツ原産ものもが多かった。
高級住宅地と言えば、南町と接する若宮町もものすごい物件が多くて、その隣の袋町は袋小路のような狭い道が入り組んだ庶民的な住宅街だった。
ひとつひとつが狭い町なのに、それでも町によって雰囲気が変わるのはおもしろい。この雰囲気は江戸時代から脈々と流れ続けているのかも知れない。
監視カメラついてる家が多かった
雰囲気一転して狭い道と庶民的な住宅街
町名に市谷がつく一族
ここまで書いてきて気がついたけど、特に南端の外堀通りに近い町は町名に冠で「市谷」を入れているところが多い。ほかの地域に同じ名前の町があって区別のためかと思ったけど、砂土原町なんてここ以外にあるのだろうか。
佐渡守の家がなくなって砂取り場となったというダジャレのような町名
左内という名の人が開いた土地だそう
長延寺は移転して名前だけが残る
町内のほとんどが亀岡八幡宮の敷地
その昔鷹匠が多く住んでいたらしい
加賀藩主(の妻)が住んでいた、という一番オーソドックスなネーミング
今はなき寺の名前から
東照宮や江戸城を修理した棟梁が甲良さん
昭和時代には大気汚染で有名になった
昔は山伏が出るような山だったのだろうか
外堀通りに面しこのあたりでは一番派手な町
120人ほどしか住人のいない町
それぞれの街並みにはそれほど違いがないので詳細は割愛するが、これだけ並ぶと壮観である。同じ地名が冠についている町名としては全国でトップクラスに多いのではないだろうか。
競馬でいうところのマチカネ軍団のようである。
町の飛び地がある
このエリアを東西に貫く早稲田通りより北側の地域は、大きなものから小さなものまで、とにかく印刷や製本関係の工場が多い。
ものすごく大きなビルの会社から
町工場風の佇まいのところまで数えきれないほど
すぐ北を神田川が流れ、大手の出版社や印刷工場が軒を連ねていることもあって、こういう環境が自然にでき上がったのだろうと思う。
神田川が近い影響か、小さな川や水路の跡と思わしき細い路地も多い。
ここは通り抜けるのに勇気が要った!
急にこんなクランクがあったり
工場街っぽいけどじゃあ車はいいのか
ここがベストオブ細い路地
そんな中、北端に位置する改代町と山吹町に、23区内では珍しい飛び地が存在する。グーグルマップだと飛び地が分からないのでマピオンを見てほしい。(
→地図を見る)
中心の矢印が立っている部分は改代町だけど、まわりを山吹町に囲われている。改代町の本体は山吹町の東側に隣接している。4軒ほどが四面楚歌状態で、さらによく見ると北側の文京区関口に向かって敷地が細く伸びている。どうしてこんな形になったのかは分からない。でも現地に行ってみた。
隙間から飛び地が見える(オンマウスで表示します)
隣接する路地から、四面楚歌状態の4軒のうち1軒のマンションだけ見えた。表札にちゃんと改代町と書かれていて、敵陣の中飛び地であることを主張している。
敵陣のなか自陣を高らかに主張
この隙間が奥まで飛び地らしい
マンションの脇から奥の方に細い飛び地が続いている。さらに奥は文京区だ。どうなっているのか、裏にまわってみた。
区界に接する飛び地(オンマウスで表示します)
細い飛び地は家1軒分の幅になって、そのまま区界に接していた。おそらくこの家の人が鍵を握っているだろうけど、詳細は分からない。
覚えきれない
東京ではどの区でも、戦後になって町の統合や改名が行われた。新宿区でも西側から着手されたけど、このあたりの住民の方々の運動でこの小さい町たちが残されることになったらしい。
まあそれはいいとして、実際興味を持ってめぐってみたけど、現代となってはそれぞれの町で大きな特色があるわけでもなく、町名と位置関係がいまとなってもまったく覚えきれずとても苦労した。
あのあたりで郵便屋宅配便を配る仕事じゃなくてよかったと思った。
ところで町名看板は旧牛込区内はコンプリートしたけど、まあぜんぶ載せなくてもいいですよね。