白熱した試合の跡
少し前だけど、夏休みに昼寝から起きてテレビをつけたら、高校野球の中継が行われていた。ちょうど試合が終わったところで、画面にはこんなスコアボードが映し出されていた。
とある高校野球のスコア
3行に数字が並んだこの野球のスコア、ニュース番組や新聞のスポーツ欄でもよく目にするフォーマットなので、分かる人も多いと思う。
野球のスコアを知らない方にいちおう説明すると、上の段が試合の回、真ん中の段が先攻チームの得点、下の段が後攻チームの得点、いちばん右端の数字がそれぞれの合計点だ。
寝ていたので試合はまったく見ていないけど、このスコアで目が覚めた。結果だけ見れば2対3、でもそこに至るまでの1と0の羅列の中に、ものすごい熱戦の痕跡を感じることができると思ったのだ。野球好きの皆さんどうですか。
お互い0点が続いた4回、先攻チームが先取点奪取に成功。しかし喜びも束の間、その裏にすぐ同点に追いつかれてしまう。その後は膠着状態が続き、終盤に突入した8回裏に後攻チームがついに勝ち越し。あと1回をしのぎ切れば勝利、と思いきや先攻チームが執念で追いつく。そのまま延長戦に突入し、12回裏にとうとう後攻チームが得点を挙げてサヨナラ勝ち。
これぞ甲子園、という激闘だと思う。
甲子園球場のイメージ(富澤豊さん提供)
ホームへのヘッドスライディング、崩れ落ちるピッチャー、ベンチから駆け寄るナイン、呆然と立ち尽くすレフト、抱き合って喜ぶスタンド、涙ぐむチアガール。実際にあったかどうかは知らないけど、そんな場面を想像して勝手に目頭が熱くなってしまう。夏休みに夕方まで寝ていて、起きるなりこのスコアを見てじんわりしてしまった。寝起きの中年の心を揺さぶる数字。
でも、それは僕が昔から野球を見てきたからで、まったく見たことない人や興味のない人がこのスコアを見ても何とも思わないだろう。立ち尽くすレフトの切なさなんて想像できないはずだ。
それで思いついた。
きっと、こういった数字の羅列で熱く語れる人がいるのではないか。素人目には単なる数字だけど、見る人が見れば泣いたり笑ったりできるデータ。そんな話を聞いてみたい。 そこで募集をしてみたところ、何人かの方が手を挙げてくださった。ひとりずつ話を聞いてみよう(なんと、ここまでが前置きである!)。
真のライバル対決で生まれた奇跡のスコア
まず最初に紹介してもらう泣けるデータはこれだ。
また野球のスコアである
この企画を思いついたキッカケと同じ、野球のスコアだ。上で書いた高校野球のスコアを例に出して募集をしたところ、「もっとすごいスコアがある」と教えてもらったのがこれ。
お話を伺ったのは、マーケティングコンサルタントの会社を経営されながら、経営学の大学教授でもいらっしゃる富澤豊さん。つまりこういうデータについて語るプロだ。素人が「データを見て泣く」なんて軽いノリでお話を伺っていいのか、軽く緊張する。
大の横浜ベイスターズファンでもある富澤豊さん
第88回全国高等学校野球選手権大会、つまり平成18年夏の甲子園の決勝のスコアです。
富澤さんはマーケティングリサーチというお仕事柄、そして元来スポーツ好きということも相まって、スポーツのスコアを分析するのがご趣味とのこと。そんな富澤さんご推薦の「泣けるスコア」、なんと甲子園決勝のものだという。
ところで平成18年夏の甲子園というと、決勝の対戦校は…?
駒大苫小牧対早稲田実業。つまり田中将大対斎藤佑樹、もっと分かりやすくいえばマー君対ハンカチ王子のときです。
斎藤投手(早稲田大学時代/富澤豊さん提供)
ああ!稀に見る好投手同士の対戦に日本中が熱狂したあの試合、覚えている人も多いだろう。あれ、もう5年も前なのか。そういえば田中投手はいまや日本球界を代表する選手だし、斎藤投手も大学を出て今年からプロだ。
さっそくスコアを見ると、試合開始からずっと両チーム0点が続き、8回の表裏にそれぞれ1点ずつ取り合っている。同点なので9回が終わるとそのまま延長戦に突入、最終的には延長15回で規定により引き分けで試合終了。翌日に再試合が行われることになった。
確かにこれは両投手の緊迫した投げ合いが読み取れる熱戦だ。決勝で引き分け再試合というのもすごい。でもサヨナラで決着したわけでもないし、高校野球の長い歴史を振り返れば、過去にもっとアツい試合があったのではないだろうか。なぜ敢えてこのスコアなんですか?
いろいろな要素があるんですが、このスコアの魅力は何と言っても美しさです。熱戦という点では、たとえば過去には昭和44年夏の大会決勝、松山商対三沢の延長18回0対0の引き分けという試合や、
歴史に残る決勝戦引き分け、翌日再試合
昭和54年夏の大会3回戦、ファンの間でも名勝負と名高い、星稜対箕島の延長18回3対4箕島のサヨナラ勝ち
高校野球史上最高の試合とも言われている
といった、高校野球の歴史に残る名試合もあるのですが、そういった試合とは別に、この試合はちょうど真ん中の8回にお互いが1点ずつ取り合い、それ以外はスコアボードにすべて0が並ぶという、左右対称で均整のとれた美しさがあるのです。
チーム名を入れてもう一度
スコアの美しさ!シーソーゲームとかサヨナラとか、スコアからドラマを読み取ることはあっても、スコア自体の美しさという要素は今まで考えたことがなかった!実力伯仲の好投手が投げ合ったからこそ生まれた、貴重な記録なのだろうか。
実はこの試合、駒大苫小牧の田中投手は先発せず、3回途中から登板して15回まで投げています。いっぽう早稲田実業は斎藤投手に託して、ひとりで15回を投げ切っている。しかし、打たれたヒット数は同じ7本。両投手だけを比較すれば、これも美しい要素ではないでしょうか。
これこれ!スコアを見ただけでは分からない、専門家ならではの目線の話が聞きたかった!それにしても何かとライバルとして語られることの多い両投手、決勝で打たれたヒット数まで同じとは。
数々の名勝負を生んだ高校野球の聖地、甲子園球場(富澤豊さん提供)
この試合でおもしろいところは、7回まで斎藤投手は初回の先頭打者に打たれた1安打だけでほぼ完璧な内容、いっぽう田中投手はちょこちょこヒットを打たれながらも何とかしのいでいた。それが8回に斎藤投手はホームランを浴び、その裏に駒大苫小牧は守備の乱れがあって、そのあと犠牲フライで1点ずつ失っている。結果的にその回だけで、あとはまたお互いに得点を許さず、引き分けで終わっている。斎藤投手の突然の被弾、駒大苫小牧の痛恨のミス、それがどちらも結果的に試合の中間地点となる8回にあった、こういう不思議なめぐり合わせもおもしろいですね。
数字の並びから両投手、いや両チームの心理的な情景までが見えてくるようなお話に引き込まれた。「さらに、」と富澤さんは続ける。
この試合、駒大苫小牧は夏の甲子園3連覇が懸かっていたんですよね。前々年に北海道勢として初優勝して、前年には奇跡と言われた連覇を成し遂げたんですが、この年の春の選抜は不祥事があって出られなかった。いっぽう早稲田実業は王さんの時代(昭和32年)に選抜を優勝しているけど夏は優勝経験がない。だからどっちも絶対に勝ちたかったでしょうし、試合前からの盛り上がりもすごいものがありました。
改めて考えると、いろいろな要素が重なって、この年の決勝はここ最近でもいちばんの注目度だったと思う。そしてその中心に、ライバルと言われるあの二人の投手の存在があったことは間違いない。ところで、斎藤投手と田中投手はこれが初対戦だったのだろうか。
実は前年にも対戦しているんですよ。彼らが2年生の秋、ちょうど今の時期に行われる明治神宮野球大会のトーナメントでも対戦していて、そのときは田中投手が好投して勝ちました。マー君が既に全国的な注目選手だったのに対し、ハンカチ王子はまだ覚醒する前で。
そうか、あの決勝のスコアは非のつけどころのない美しさだけど、その前から見ていた人にとっては、両投手、両校の背景も重なって、より深く重いスコアなのだろうと思った。しかも2校で争うわけではなく、全国何千という高校が戦ってきた、その頂点を決める最後の試合に残ったのがあの2校で、あの両投手で、その結果があのスコアなのだ。
それが分かった瞬間、僕は高校野球の神髄を見た気がした。美しい。美しすぎる。神々しさすら感じる美しさ。毎年高校野球をチェックしているファンにとっては、語り尽くせない思いが詰まっているスコアだと思う。
ちなみに、翌日行われた再試合のスコアはこうなった。
これはこれで好ゲーム
余談になるので多くは書かないが、これだけで十分語れるスコアである。ましてや前日に延長15回まで戦った同士。やっぱりこのときの両校の実力は、頂点のレベルで限りなく伯仲していたのだ。
最後に、試合終了のシーンをキャプチャした画像を見せてもらった。駒大苫小牧の打者はなんと田中選手で、結果的には三振に倒れているのだけど、投げた斎藤投手は横にバランスを崩し、田中選手は見事なフルスイング。まさに双方が全力を出し切ったことが分かるシーンだった(youtubeにあるので
検索してみてください)。本物の胸熱とはこれだ。芸能人のお宝シーンじゃない、意地とプライドの本気のぶつかり合いだ。
今回のお話を聞いて、僕はこの2人をずっと応援していこうと心に決めた(西武ファンだけど)。
緑の濃さで泣いたり笑ったり
次にとっておきのデータを紹介してくださったのは、新潟で農業に携わっている夜鷹さん。ちなみにバイクと
ダムや
カントリーエレベーターめぐりが趣味という行動派である。こっちの話もいつか聞いてみたい。
ダム好きでもある夜鷹さん
そんな夜鷹さんが見せてくれたデータはこれ。一目見て何のことか分かる人はいるだろうか。
小数点が入って急に細かくなった
項目の欄に「こしひかり」という文字があるのでお米か稲のデータ、という想像がつく。でも一般人はお米にまつわるデータなんてほとんど知らないだろう。もしかして「怪しい」データ…?いやいやいや。とりあえず、もう野球の知識は役に立たなそうだ。
これ、何のデータですか?
作物の葉の色の濃さを測定して栄養状況を推定する、SPAD値のデータです。
SPAD値!お米は毎日食べているけど、初めて聞く名前である。具体的にはどのように測定して、そのデータはどのように生かされているのだろう。
SPADとは農林水産省の「土壌作物育成診断機器実用化事業(Soil & Plant Analyzer Development)」の略称で、葉の緑色の濃さを、コニカミノルタ社で開発された計測機器「SPAD-502」で測定した値のことを指します。大まかに言って、数字が大きいほど緑色が濃く、緑色が濃いほど肥料が効いていると考えられることから、SPAD値が高いほど肥料が効いた状態である、と判断できます。
SPAD-502で計測中(夜鷹さん提供)
なるほど!農業というと、漠然と農家の方の経験がモノを言う世界なのかと思っていたけど(それも大きな割合を占めるだろうけど)、このように数字に出して生育状況を客観的に判断できる要素もあったのか。21世紀型の稲作である。
夜鷹さんは学生時代に農学の中でも稲について勉強されており、このデータも学生時代に測定したものとのこと。俄然興味が湧いてきたところで、この表の見方を解説してもらおう。まず最上段の数字は何を表しているのだろうか。
最上段の数字は稲を植えた後の日数です。基本的に週1回の調査を行っているので、7の倍数になっています。
項目欄の「コシヒカリ」は聞くまでもなく有名なお米の品種だけど、それ以外はあまり聞いたことがない。「こしいぶき」、「新潟早生」、「ゆきん子舞」もお米の品種なのだろうか。どれがいちばん好きですか?
新潟早生は既に一線を退いて、現在は栽培されていないかも知れません。そのほかの3種類は新潟県の奨励品種に指定されているものです。個人的には、コシヒカリを食べなれているせいか一番口に合う気がしますが、こしいぶきも食味はコシヒカリ並とされていて、若干リーズナブルなので、こだわらなければこしいぶきでもよいと思います。ゆきん子舞は一般的に口にすることはほとんどないと思います。
お米を食べる日本人すべてに関係のあるデータだ(夜鷹さん提供)
僕は品種に関わらずどれを食べてもおいしいと思ってしまうけど、滅多に食べられないと言われると「新潟早生」や「ゆきん子舞」も食べてみたくなる。
品種欄の右に並ぶ数字がそれぞれのSPAD値だというのは分かる。数字を追っていくと、急激に増えていったあとなだらかに減ってくる、というのが大まかな流れのようだけど、計測時に数字を見てSPAD値が高い、低いはどう判断するのだろう。単純に葉の色が濃ければおいしいお米ができる、というわけでもないのだろうか。
基本的には数字が高いほど緑が濃いのですが、濃ければよいというものではないようです。県の指針で生育目標のSPAD値があり、これを指標として、品種と成長の時期に合わせた緑の濃さを、肥料などで調整するのが栽培の腕の見せどころです。
また、適切なSPAD値は品種や地域によっても異なるため、各地域でそれぞれの指標値を設定し、それに従った栽培を行っていると思います。もちろんSPAD値だけでなく、葉の枚数や茎の数、丈の長さなど、総合的に揃ってこそ良い生育と言え、おいしいお米を適切な量収穫することに繋がります。
そうか、地域が違えば気候も違うし水質も水温も違う。そう考ればSPAD値が違ってくるのも当たり前だ。21世紀型の稲作などと書いたけど、そこに至るには、やっぱりこれまで稲を栽培し続けてきた経験と実績の積み重なりがあってこそなのだろう。
こんなこと、もちろん知らなかったし今まで気にしたこともない。でもこれからはお米を買うときに、お米の一粒一粒から稲の一本一本が見えてきて、その稲が太陽に照らされたり雨に降られたりして、丈の長さや葉の色の濃さを変えながら苗として植えられたところまで時間が逆戻りしそうだ。これは泣ける。スーパーで米袋を抱きしめながら涙を流している人がいたら、それはSPAD値を知ってしまった人だ。
では具体的に、夜鷹さんが学生時代に測定したデータを解説してもらおう。このデータにあるそれぞれの稲の生育状況はどんな感じですか。
この稲の生育具合は、指標に比べて若干高めで、肥料を撒きすぎていたようです。実は、このデータはコシヒカリに合わせた栽培方法でほかの3品種も栽培しています。本来は、品種によってそれぞれ肥料の量や使用時期が若干違うので、このデータ上のSPAD値は指標からずれています。ここには表れていませんが、肥料を撒きすぎていたので丈の長さも指標を超えていました。
おお、いかにも「実習」という感じのデータである。それにしても、このデータの解説を聞くだけで、同じ稲でも品種によって肥料の量やタイミングが違うという、作物栽培の奥深さを知ることができる。同じマクドナルドでも、アメリカと日本でハンバーガーやドリンクの大きさが違う、という感じだろうか。こちらはぜんぜん奥深くないけど。
数字を眺めると、どの品種を見ても、植えてから42日目あたりにSPAD値のピークが来ているけど、これが稲の栽培のパターンなのだろうか。
田植えを5月の上旬にしているので、42日目あたりだと6月下旬頃になります。県の指標値の例を見ると、6月25日の値がいちばん高くなっているので、パターンとしては理想的な生育をしていると見ることができます。ただ、ちょっと肥料が効きすぎでしたが。
もうひとつ気になったのは、42日目をピークに緩やかに下がり続けたコシヒカリのSPAD値が、98日目くらいから112日目にかけて再び上昇している。これは何か意味のある動きなのだろうか。
最初にあげた肥料が6月下旬くらい(42日目付近)に切れるので、稲の穂が出る前に、その後の生育のための栄養の追加として「穂肥」と呼ばれる肥料を撒いているのです。この量もSPAD値を参考に決めています。
どうせ追加で肥料を撒くなら、ずっとSPAD値が高い状態にしてしまえばいいのでは、と素人は思ってしまうけど、植物にとっても栄養の取りすぎは良くないらしい。きっと、このSPAD値の変化は、農家の方によって長年かけて編み出された日本の稲作技術の結晶なのだろう。
おいしいお米が食べられるのも農業技術が発達したおかげ(夜鷹さん提供)
どんなジャンルであれ、詳しい人の話を聞くのは本当に楽しい。まったく知らなかった稲作の知識が、単なる数字の羅列に過ぎないこのデータからどんどん出てくる。これからは、水田を見るたびに「SPAD値39くらいかな(てきとう)」、「そろそろ穂肥の頃だな」なんて通っぽい感想を言えるのだ。
最後に、これまで経験したSPAD値にまつわる印象深いエピソードを教えてもらった。
準備中に誤って肥料をこぼしてしまった田んぼの一角が、その後明らかに緑色が濃くなったので測定したところ、SPAD値が異常に高くなっていました。継続調査をしている場所ではなかったので事なきを得ましたが、それと同時にSPAD値による生育状況の把握という方法が適切であることを認識し、また、肥料の効果を数値として目の当たりにし、見た目を数値化するという技術に涙しました。
肥料をこぼしたことをキッカケに、見た目の情報を数値化する技術のスゴさに気づいてしまった夜鷹さん。相手が米だけに、まさに失敗を糧にしていると言えるだろう。
というわけで、今日から知ってしまった稲作の新しい知識、SPAD値。お米を買うとき、ぜひ頭の片隅で思い出していただきたい。当サイトウェブマスターの林さんは計測器マニアなので、きっとSPAD-502を買ってそのへんの葉っぱを測りまくるんじゃないかと思う。
バケットカットでダム泣き
こんなに写真も少なく、文章ばかりの長い記事をどれだけの人が読んでくれるか分からないけど、最後に紹介するのは、以前話に聞いて、そのスゴさに感動して以来どうしても表に出したかったデータである。かなり長いけど、とりあえず読み進めてほしい。
これは、かつて台風が襲来したときの、とあるダムの流入量、放流量、貯水量などの記録である。つまり、この中にダムと台風の壮絶な戦いが記されているのだ。ただ、僕もいちダム好きではあるものの、実際のダムの操作にはそれほど詳しくないので、以前このダムと台風の話を教えてくれた夜雀さん(HP「
雀の社会科見学帖」管理人)に解説をお願いした。
まず、これはいつ、どこのダムのデータですか?
平成21年台風18号が襲来したときの、三重県名張市にある比奈知ダムの観測データです。
貯水量はダム湖の水の量、流入量は上流からダム湖に流れ込んでくる水の量、放流量はダムから下流に流す水の量、貯水率はダム湖の通常使う容量の何パーセント水が貯まっているかを示します。100%を超えている分は、ふだんは使わない洪水を防ぐための水位まで水を貯めているということです。
これは国土交通省が管理している「川の防災情報」というホームページで公開されている、誰もが見ることのできるデータだ。世のダム好きたちは、前線や台風が襲来すると即座にこのページを開き、刻々と変化する数字やグラフを見ながら、雨の強さ、河川の増水に畏怖し、それと戦うダムの姿に敬畏を覚えるのだ。
リアルなCG、カラフルなユーザーインターフェイスが巷にあふれる現在にあって、この数字とグラフで手に汗握る世界、イメージとしてはファミコン以前のパソコン用シミュレーションゲーム(敵が「@」とかで表示されてたやつ、操作できず経過を眺めるだけ)に近い。
どこかで大雨が降っているとき、その上流のダムはいま流入が毎秒〇〇m³に対して放流が毎秒〇〇m³、つまり毎秒〇〇m³ダムに貯めて下流の水位を抑えてる!でも貯水率はじりじり上がってる。大丈夫かな、心配だな。でもきっとこのダムならやってくれる!…と、数字を見てドキドキハラハラしながら頑張れと言っているのです。
ダム好きの純粋さ、ストイックさが分かってもらえるだろうか。
大雨の中の比奈知ダム
さて、実際にこのデータを見ながら、ダムの動きがどうすごいのか、解説してもらおう。
特に注目なのは、7日から8日に日付が変わった直後の午前3時頃、流入量が一気に増えているのが分かります。同時に放流量を見ると、流入量は増え続けているのに、午前5時頃にガクッと放流量を減らしているでいる。ここで叫ぶわけです。「バケットカットやぁぁぁ!」
鍋底カットとも言いますけど、雨が強くなって上流からの流れ込みが多くなったときに、一気に放流量を減らす(カットする)んです。もちろん、こうすることで貯水池の水位はガンガン上がります。でもいちばん流量が多いときの水をダムに貯めて耐えることで、大きな洪水調節効果を発揮できるんです。その後、雨が峠を越えて川の流量が減ってきたら、ダムからの放流を少しずつ増やします。
洪水を防ぐためのダムと聞いても、ふつうの人は大雨のときにダムがどんなことをしているか詳しくは知らないと思う。バケットカットがそんなにスゴいというなら、世の中の治水ダムはみんなそういう運用をしているのだろうか。
バケットカットができるダムは国内でも一握りです。なぜなら大きな貯水池で、かつ大きな空き容量を持つダムでないとできない芸当だから。それに細かい放流量の調節が必要なので、何種類かの水門がついているダムじゃないとできません。本来、この比奈知ダムは一定量放流方式という洪水調節をするので、バケットカットはしないんです。
これは、各ダム湖で決められた水位に到達するまでは、流入量と放流量を同じにするのです。そして、決められた水位になったら、その後はダム湖に水がどんどん流れ込んできても一定量しか放流しないようにして、下流の川の水位を抑えるのです。
ダムが洪水を防ぐための運用方法にはいくつかの種類があって、バケットカットも一定量放流方式もそのひとつなのだ。実際、データを見ても日付が変わった直後までは流入量と放流量がほとんど同じ数字を記録しているのが分かる。では、そのあと比奈知ダムはなぜ普段の運用ではなく、バケットカットを行ったのだろうか。
ここからが本題です!通常、ダムは本則操作という決められた操作で運転しています。そこから外れると普通は怒られます。でもこのときは、下流の名張市街地にものすごい大雨が降って、ダムの下流が先に氾濫寸前の状態になってしまった。名張市の上流には、比奈知ダムのほかに青蓮寺ダム、室生ダムという一定量放流方式のダムがあるのですが、もうこれ以上、下流の流量を増やせないので、ダム湖にもすごい流入があるにも関わらず、一定量放流方式で決められた水位以下でも放流量をカットしはじめた、つまり本則操作を外れたのです。
名張市の上流にある室生ダムと
青蓮寺ダム
本来、ダムが守るべき市街地を先に攻めてダムの防御力を弱めようとする台風の攻撃。まるでゲリラ豪雨のようだ。ダムが放流を減らして耐え続けても、このまま雨を降らせ続ければいつかは貯水容量を使い切る時が来る。もう氾濫寸前の名張市内を流れる川に、上流のダムが放流を増やしたらどうなるか。台風の作戦は完璧に思えた。
実際、3つのダムのうち青蓮寺ダムに限界が迫りました。ダム管理所で計算した結果、このままではダムの上を水が溢れるという予測が出てしまった。そのことを3つのダムを統括する司令部に伝えたのです。そこで司令部は考えた。青蓮寺ダムが貯め込んでいる分を、比奈知ダムと室生ダムが受け持てば青蓮寺ダムは本則操作に戻れる。つまり青蓮寺ダムが放流を増やす代わりに、そのぶん比奈知ダムと室生ダムが放流量を減らすことにしたのです。各ダム単独ではなく、3ダムで連携すれば名張市内の水位を上げずに青蓮寺ダムの放流量を増やせるのです。運よく、比奈知ダムと室生ダムには青蓮寺ダムを支えるだけの空き容量もあって、司令部がそのプランを国の統合管理所に伝えたところ、速やかに許可が降り、連携操作が行われることになったのです。
徹夜で懸命の操作が行われた
それが、真夜中から明け方にかけての各ダムのデータに現れている。
放流量が横ばいだった比奈知ダムは、流入量が最大値を記録しているにも関わらずバケットカットを敢行。本則操作を離れつつ、徐々に増やしていた室生ダムの放流量も、午前6時頃に流入量が減ってきたと見るや一気にカット。それらの動きを見て青蓮寺ダムは午前5時頃に放流を増やしたものの、流入量が減ったことから横ばいに移行。それぞれのダムが、最大限の防御力を発揮したことが分かる。結果的に、氾濫の危機に直面していた名張の街は守られた。
これを見た夜雀さんはどう感じたんだろう。
うわ!すげーことやっちゃってる!あのタイトな運用の名張3ダムでこの洪水調節…。と思って、もう一度最初の比奈知ダムのデータを見て、すげーよ…、と、ここで泣くわけです。
確かに、比奈知ダムのデータで10月8日の午前5時、流入量がピークを迎えているのにガツンと放流量を減らしているのは衝撃的である。みんなが台風に怯えながら夜を明かしている最中、山の中のダム管理所ではこんな壮絶な戦いが行われていたのだ。そしてその戦いの跡が数字でしっかり記録されているのだ。これは泣ける。3つのダムのデータを横断して見渡せば号泣間違いなしである。見る人が見ないとさっぱり分からないけど。
もっとデータを見たい
というわけで、野球のスコア、稲のSPAD値、そしてダムの流入量放流量という、まったく違う3つのデータについて詳しい人に話を聞いた。どのデータも、興味のない人から見れば何のことか分からない数字の羅列だけど、その中には膨大な、そして泣ける情報が詰まっていた。そしてその話を聞くのはものすごく楽しかった。
いま、世の中はデータで溢れている。きっと、ほかにも興味深い話が埋まっているだろう。「このデータを見てくれ!」という熱い情報あったらぜひ教えてください。待ってます。