なぜだか湧き出る微妙な味わい
スーツで体育座り。個人的には字面を見ただけで、せつない気持ちになってしまう。スーツの「ちゃんとした感じ」が、体育座りと交じり合うと妙な味わいになる。
わけあり感や気だるい雰囲気がそうさせるのだと思う。言葉を費やすよりも実践してみせる方が早いだろうか。
いつものスーツを着て玄関の前にたたずんでみただけで、もうこれだ。何も語らずとも、見る者にさまざまなドラマを想像させる。あの人、どうしたんだろ。
別に何かあったわけではないのに、こうしてシミュレートして座ってみただけでもなんだか気分も沈みがち。いい感じだ。
今度は屋根にのぼってみた。玄関にも増して意味のわからないわけあり感が漂う。
全体を包んでいるのは軽いあきらめムード。いろいろポーズを変えたりして撮影してみたところ、靴を脱いでそばに置くとまた味わいが増すことを発見。
街で見かけてきた様子を実践してみて、自分の中で郷愁が一体化。よし、この調子で外にも行ってみよう。
土手には体育座りがよく似合う
そういうわけで、やってきたのは川の土手。撮影当日は梅雨の合間の晴天で、土手に行くにはちょうどよい日だった。
写真から平日の昼間っぽさまでも読み取れるようになったら、もうかなりの上級者だ。そうした背景も想像してご覧いただくと、また深みが出てくると思う。
草いきれが軽く鼻を突く。周りに生えているシロツメクサをなでたりすると、哀愁も高まる。
陰のある気配と事情のありそうな趣きとがかもし出す、謎の共感。通りかかった人も、見てはいけない感じで通り過ぎようとしつつ、気になっている様子。
私の方も、よくわからないままに会釈。なんなんだこれは。
土手にスーツで座っていると、これまであったいろいろなことが頭の中をめぐりはじめる。うれしいこともかなしいことも、別にどちらでもないことも、たくさんあった。
収拾のつかないぼんやりした思い。これではいけない。いや、別にいいか。答えは見えないが、もっと攻めてみよう。
神出鬼没の体育座り
玄関前や土手では「わけあり感」が強調されたが、もっと謎めいた感じも出してみたい。状況不明な「いきなり感」と言えばよいだろうか。
土手の横を走る道の脇で座り込むと、唐突な感じがかなりアップ。ときどき道にネクタイが落ちているのを見て妙な気持ちにさせられるが、この写真は少しそれに似ていると思う。
何があったか知らないけれど、そこで体育座りはまずいだろ。そんな風に呼びかけたくなるたたずまいだ。
唐突さは十分に出たと思う。続いては、こういう状況はありそうだという「あるある感」を出してみたい。
やってきたのはショッピングモールのフードコート。イスに座ると体育座り感がわかりづらくなるが、そういう部分も見落とさないようにしていきたい。
これはあり得そうだ。見た人も「この人にとっては体育座りが一番楽な座り方なんだろうな」と受け止めてくれるだろう。
そういう意味では、敷居が低く実践しやすい体育座りだと言えると思う。そしてしばらく座っていると、ある発見をした。
ライバル登場、隣に座ったおじさんがあぐらをかいているではないか。
体育座りもいいが、確かにあぐらもいい。スーツのカチッとした雰囲気に対して、ツナギの活動的な感じがよい対比にもなっている。ここは負けたくない。
何が勝ちで何が負けなのかは自分でもわからないが、そんな気がしてくるフードコート。
街のそこかしこで絵になる、スーツで体育座り。思った以上の適応力と柔軟性がよくわかる。
ビジネスマンの象徴であるスーツ姿で体育座り。これは忙し過ぎる毎日を送る現代人への警鐘なのだ、などと適当なことを言っても、うっかり通用してしまうかもしれない。
脱ぐべきではないものを脱ぎ捨てろ
やってみて驚いたのは、スーツで体育座りをしたときのリラックス感だ。目をつぶると日々の憂いは奥の方にかすみ、心地よい内なる弛緩が訪れる。
最初は難しいかもしれない。ただ、自分のスイッチをうまく切れるようになれば、気持ちのよい脱力がそこにある。
草が風に揺れる音はもちろん、車の排気音でも雑踏のにぎわいでもいい。体育座りで目をつぶれば、なぜだかそれら全てを受け入れられる気がする。
読んでいる方の疑念を取り払うのは難しい気がしますが、まずは人目のない場所で試してみるのもいいと思います。