なぜ自分はこの部屋に帰ってくるんだろう
2時間ほど、大きな音で音楽を聴いた。ライブ会場にはすごく大勢の人がいて、体を揺らす余裕もそんなにないほどだった。
すべての演奏が終わって、賑やかな会場を一人でサッと後にする。来た道を引き返し、私が帰るのは天下茶屋の出奔先である。
あの部屋の冷蔵庫では牛肉が冷やされている。駅前のスーパーに寄って、しゃぶしゃぶをするのに必要なあれこれを買っていこう。
買い出しを終えて部屋に戻る。エレベーターが開くと、夜景が綺麗だった。
ここで、予想外のことがあった。友人から連絡があり、「これこれこうで出奔してまして」と私が伝えると、それを面白がって天下茶屋まで来てくれるというのである。友人は本当に電車に乗ってやってきた。時間も遅かったのでほんの少ししかいられないとのことだったが、せっかくなので部屋を見てもらった。
缶チューハイを買ってきた友人は、部屋の床に座り、「いや……なんか妙な気分っすね」と、ちょっと気まずそうにそれを飲んでいた。「どうぞどうぞ、ソファに」とすすめたが「いや、大丈夫っす!」と固辞し、本当にすぐ帰っていった。
友人が帰って行った後、ぞわぞわと寂しさが込み上げてきた。私はなんでここにいるんだろうか。寂しいぞ。そうだ、肉がある!肉を盛大にあっためて食べるぞ!
台所しゃぶしゃぶで出奔の醍醐味を味わう
さて、私はスーパーで昆布と豆腐とカット野菜と小ネギとポン酢を買ってきていた。事前に包丁が無いことは確認してあったので、切らずに使える食材を選んだ。
部屋にあった小さな鍋に水と昆布を入れて熱し、ダシを取る。豆腐は箸の先で切る。
野菜や豆腐も煮立ったところで、天下茶屋の肉屋で衝動買いした牛肉をしゃぶしゃぶ。
うまい!いい店のしゃぶしゃぶの美味しさだ。あと、アツアツの食べ物を食べているというだけで自分がこの部屋にいる根拠を得たような、強い気持ちにもなった。私はここにいる!うまい肉を食べている!
無我夢中の勢いで300グラムの牛肉を食べ終え、少しベッドに横になろうと思ったら、次の瞬間には明け方になっていた。
窓を開けたら外は雨だった
「えっ、朝?」とびっくりして窓を開けたら外は雨だった。
やばい。私には昨夜中に終えなければならない仕事があって、作業をしようとパソコンも持ってきていたのだった。急いでやろうと思うのだが、作業に最適そうなテーブルの周りにはコンセントの差し込み口がなく、ベッドとベッドの間で仕事をすることになった。
仕事はチェックアウトのギリギリまでかかってしまった。急いでシャワーを浴び、部屋を片付け、慌ただしく出奔先に別れを告げる。
部屋を出てしまうと、朝の天下茶屋はもう、私にとってよそよそしい街に戻っていた。この街に私の居場所はなく、ただ、いつものように散歩をしに来た街の一つになってしまったように思えた。
少し名残惜しくて、どこかで朝ごはんを食べて行こうと思った。阪堺電車の北天下茶屋駅のホーム脇に「ルンバ」という喫茶店があったので入ってみることにした。
400円のモーニングセット(色々種類がある中から「チーズトースト」を選んだ)を食べながら、濃くて熱いコーヒーを飲む。
近くのテーブルで「年取って家におったら一日がながーてしゃーないわ」と話す声が聞こえた。「長いでー!なんもすることあらへん。じっとして、やっとそろそろ夕方かおもたらな、時計みたら、まだ12時前やがな!」と、その言葉のテンポがあまりによくて、思わずこっちまで笑いそうになってしまった。
たしかに家にいたら一日は長い。出奔した一日はなんだかあっという間だった。でも、短いようでいて後々まで引きずりそうな、不思議な時間でもあったな。
昨日の夜に買い物をしたスーパーの2階から天下茶屋の街をもう一度眺めて、私は地下鉄の駅に向かい、いつもの居場所に戻ることにした。