及び腰で叶えたい夢もある
ちびっこたちの夢を乗せて空高く浮かぶアドバルーン。そんな風に書くと聞こえはいいが、やろうとしているのは割とどうでもいいことをアドバルーンで知らしめようということ。
子供の頃の気持ちと大人の思いつきが合わさると、どうもおかしなことになる。なぜかそんな予感。
大人になった今、まじめにやればアドバルーンを揚げることについての情報を集めることはできる。そしてわかったのは、それは意外と大変だということだ。
本格的にやろうとするとどうしてもプロの方に力を借りなくてはいけなくなるし、行政への届け出も必要になったりするらしい。いや、いくらなんでもそこまでは…。
そういうわけで、今回は風船をアドバルーン化するという計画にした。これなら個人で揚げられるだろう。
大きな風船を買い、専門店でヘリウムガスを入れてもらう。おお、そこにはもう、でかい風船を持ってるだけで湧いてくる喜びがある。
しかし同時に感じるのは緊張感。うっかり手を放したら、無限の空へと飛んでいってしまうからだ。
つながっているヒモのはじっこを持つと、風船はふわりと浮かび上がる。いかんせんでかいので、放したら大変だという危機感も普通のヘリウム風船より強く感じる。
あ、子供が「でけえ!」って言いながら横を通り過ぎていった。へへ、いいだろう。
キャプションには「こういうおじさん、たまにいるよね」などと書いてしまったが、やっぱりいないと思う。
自宅に帰って部屋に浮かべてみる。ファンシーな雰囲気とでかさによる違和感が入り混じってそこに湧き上がる。別の部屋に行ったあと、この部屋に戻ってくるとぎょっとするのだ。
しかしこのままではアドバルーンとは言えない。下に下げる垂れ幕を作らなくては。
テストを重ねたが、バルーンの浮力はそれほど強くない。想定していた幅と長さの幕を浮かび上げられないのだ。風船で空を飛ぶ夢がいかに遠いか、こんなところで実感。
それでも調整して、なんとか浮かぶことのできる幕を取り付けた。さあ、メッセージを書き、外で浮かべてみよう。
夢に取って代わるへぼさに耐えて
そういうわけで、アドバルーンを揚げるべく川原にやってきた。さあ、大空に舞い上がれ、個人的なアドバルーンよ。
実験当日はかなりの強風。風にあおられるアドバルーン。
やりながらもうすうす感じていたのだが、こうして写真で見て確信した。ほぼ水平だ。
それでもなんとか、風の止む合間を見て、できるだけ高くアドバルーンを舞い上がらせようとする。がんばれ、個人的なアドバルーンよ。
驚いたのは、なんとなく高く揚がった様子を見ても、あまりアドバルーンな感じがしないことだ。
そこに本来のアドバルーンが持つ、夢いっぱいな感じは微塵もない。例えて言うなら、ダメな凧あげといったところだろうか。夢がみるみるしぼんでいくではないか。
そうだ、アドバルーンの目的は、見てもらいたいことを高く掲げ、多くの人に伝えるということ。そういう意味ではこのアドバルーンは効果をあげていることができているだろうか。
などと書くまでもなく、その意味でもかなりできてない。土手をジョギングしていく人も、私を避けて走り抜けていく。
思うように操作できなかったり幕が取れたりと、散々だった個人的なアドバルーン。心に押し寄せる意味なき葛藤。
家に帰って、風のない室内でとりあえず揚げてみた。
「輪ゴムの便利さ」と書かれた幕が浮かび上がる。確かにここなら、風に流されることはない。が、自分しか見てない。
そもそもアドバルーンを通して、私が多くの人に伝えたいこととはなんだったのだろうか。白い幕と筆を前に書くべきことを考えてみたのだが、どうにも思い浮かばない。
忙しい現代人が見落としている何か。あと、あんまり当たり障りのないようなものがいいよね。そこで浮かんできたのが、輪ゴムの便利さだ。
こうして見てみて、改めてその意味のなさに驚く。
夢はみんなの心に中にこそあるもの
風が止むのを待って、自宅のそばで改めて揚げてみる。川原と違い、自宅近くでは近所の人に見られるという危険性がある。いろいろと説明が面倒になりそうだからだ。
そういうわけで、気配を殺してすばやく揚げる。うん、なんとかアドバルーンっぽくなったかな。はい、じゃあ片付けようね。
大空に舞い上がる夢いっぱいのアドバルーン。結果としては真逆になった気がするが、夢はそれぞれの心の中で大切にするべきことだと思う。