リゾートだけじゃない、懐かしい日本が残るパラオ。
年中暖かい気候と美しい海に囲まれた、南国パラオ。世界でも有数の綺麗な海を持ち、ダイバーをはじめ、毎年数多くの人が訪れるリゾート地ですが、日本にとっては歴史的に非常にゆかりのある地です。
海外ですが、街中に日本語もあふれ、耳にも入り、なんだかアットホームな気がして落ち着きます。日本から直行便で4時間半、この機会にぜひ訪れてみてください。
南の島国パラオには、戦前に日本人が建てた建物が使われていたり、各地に朽ちた戦車が転がっていたり、かつての日本統治時代を思わせるものが多い。
だが、それだけじゃない。おばちゃんはランチタイムに花札で遊び、「ヤノ」や「クマガイ」など日本人のような名前を持つパラオ人の方もいれば、パラオ語でブラジャーの呼び方はなんと「チチバンド」である。
※この記事は、 世界のカルチャーショックを集めたサイト「海外ZINE」の記事をデイリーポータルZ向けにリライトしたものです。
その時、私はパラオのコロール市内でタクシーに乗っていました。すると、パラオ人のタクシードライバーが「Japanese! Japanese!」と外を指さすのです。
その先には高校の門があり、ドライバーは「この門は日本人が戦前に建てたものだ」と教えてくれました。それから少し進むとまた「Japanese! Japanese!」の声。
現在は裁判所として利用されている建物も、戦前に日本人が建てたもので、1922年から1945年まで「南洋庁(パラオをふくむ諸島を管轄する施政機関)として利用されていた」とのことでした。
目的地に到着してタクシー代を払おうとすると、「ダイジョーブ」と言って、少し安くしてくれました。この「ダイジョーブ」、相手が日本人だからと知っている日本語を話した訳ではなく、日本語由来のパラオ語です。
日本から南へ4000キロ離れた、人口2万人の小さな島国パラオ。遥か遠くの南の島に、ちょっとした「日本」を見ることができます。
1994年に独立を果たしたパラオ。有史以来、外国に統治され続けてきた歴史を持ちます。
日本は、第一次世界大戦時に、当時統治していたドイツからパラオを占領し、1920年からパラオの委任統治を始めました。コロール島に南洋庁を置き、学校や道路、空港、水道、電気などのインフラ整備や日本語教育を実施。統治時代を経験したパラオ人(年齢的に90歳以上)は、みなさん日本語を話すことができるそうです。
話を聞くと、これまで統治してきた国は教育やインフラの整備を行わなかったようで、日本の統治によって、「パラオはかつてないほど発展を遂げた」とのこと。
また、戦中、海軍武官府が置かれるなど、海軍基地や空軍基地として日本の本土防衛最前線の役割を担うようになったことから、太平洋戦争では激戦区となりました。
当時「東洋一」と謳われた飛行場があったペリリュー島では、1万の日本兵と3万を超えるアメリカ兵が激突。その兵力差から「3日で終わる」と予想されていた戦いは、持久戦となり2ヶ月半にもおよび、ついには1万人の日本兵はほぼ全滅。一方のアメリカ兵の間でも千人以上の死者を出したと言われています。
ペリリュー島に行くと、塹壕や拠点として使われた洞穴や戦車がほぼそのままの状態で残されており、当時の激戦の様子を感じとることができます。
戦争の爆弾の撤去や遺骨収集は、戦争から70年以上経った今でも終わっておらず継続して行われています。
戦死者の慰霊碑にはシャコガイが埋め込まれています。これには雨水が溜まる構造になっており、「水が飲めず苦しんだ洞窟の兵士のために雨水を確保する」という意味があるそうです。また、ペリリュー島は、2015年に天皇皇后両陛下が公式に訪問された場所でもあります。
終戦により、日本の委任統治は終わり、今から25年前の1994年までアメリカの統治時代がつづきます。この背景には冷戦終結により利用価値がなくなったためとも言われています。
日本が統治していたこともあり、パラオ人にとって日本人の印象は気になるところです。親世代が日本人の統治時代を知っているロマナさん(72歳)に話を聞くと、父親は日本人を非常に尊敬していたようで、「日本人は世界で一番信用できる。そして、約束や自分たちが受けた恩は決して忘れない」と話を聞いていたそうです。
フスティノさん(61歳)の両親もまた日本人の教育を受け、日本語はペラペラと話せたそうです。しかしながら「『戦争で危ない目に遭った』と聞かされており、その印象はそんなに良くなかったようだった」とのこと。ただ、フスティノさん自身には日本人の友達もいて、「日本には好印象を持っている」とのことでした。
彼はしばしば、お酒を飲みながら日本の歌を歌います。「美空ひばりやフランク永井は、パラオでも有名だ!」「意味は知らないけど、この歌が一番好きだ」と言いながら、パラオ人の彼が「白樺♪青空♪南風♪〜帰ろうかな♪帰ろうかな♪」と、「北国の春」をこぶしを効かせながら歌う光景にはびっくりしました。日本語が全く喋れない方でもさも喋れるかのように演歌を熱唱します。
また、以前人づたいに聞いた話では、日本統治時代を知るパラオ人に「統治した国から教わったもの」について聞くと、「アメリカ人は我々に『自由』を教えてくれた。日本人は、我々に『責任』を教えてくれた」と答えたそうです。非常に深い言葉だなと思いました。
また、二週間に一度の頻度で行われるナイトマーケットでは、ときどき日本の歌が歌われていたりします。
私がパラオへ来る前からもともと親日とは聞いていたのですが、戦争に巻き込まれたこともあり全部が全部の印象が良いという訳ではありません。それでも日本人のことを悪くいう人があまりいなかったのが印象的でした。
統治時代を知るパラオ人は、日本に対して良くも悪くも強烈な印象を持っており、逆に今の若い世代は、日本に対してそこまで強い意識は抱いていなさそうです。
衝撃的だった光景があります。
所用でパラオの短期大学に行った時、ちょうど昼休みだったのですが、どこからともなく聞こえる「ツキミデイッパイ」「イノシカチョウ」という言葉。なんと、おばちゃん達が花札をしていたのです。彼女達からしたら何気ない日常でしょうが、ここは日本から遠く離れた異国の地。かつて日本が統治していたことを感じさせます。
また、パラオ人でも、日本人のような名前を持つ人が多いです。例を挙げると、駐日パラオ大使はフランシスコ・マツタロウさん、大統領補佐官もドナルド・ハルオさんという風に。日系の方もいらっしゃるし、そうじゃない方もいます。以前一緒に食事をしたテルコさんは、日本の名前とパラオの名前を両方持たれていました。
ほかにも、「ヤノ・フードマーケット」と「クマガイ・ベーカリー」など。一見すると日本にもありそうな名前ですが、どちらもパラオ人が経営しているお店です。
人名以外にも日本語由来のパラオ語は多く、チチバンド(ブラジャー)、サルマタ(パンツ)、エモンカケ(ハンガー)、キンロウホウシ(ボランティア)、ツカレナオシ(飲み会の時の掛け声)などなど。今の日本ではあまり聞かなくなった単語も数多くあり、パラオでは日常的に使われています。私とパラオ人との会話は基本的には英語になりますが、たまに「ダイジョーブ」などの日本語が出てきて、思わずニヤッとする自分がいます。
ほかにも日本食専門店でないにも関わらず、お店に行くと普通に刺身が売ってあったり。パラオ料理として、地元の食材と一緒に並べられることもよくあります。パラオスタイルは、醤油にレモンを絞って食べるようです。
年中暖かい気候と美しい海に囲まれた、南国パラオ。世界でも有数の綺麗な海を持ち、ダイバーをはじめ、毎年数多くの人が訪れるリゾート地ですが、日本にとっては歴史的に非常にゆかりのある地です。
海外ですが、街中に日本語もあふれ、耳にも入り、なんだかアットホームな気がして落ち着きます。日本から直行便で4時間半、この機会にぜひ訪れてみてください。
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