『純粋理性批判』
まずピンとこない人も多いだろうから『純粋理性批判』という本について少し説明したい。
『純粋理性批判』というタイトルは「人間だれもが経験に左右されずはじめから等しく持っている(=純粋な)『理性』について、批判的に検討してみよう」というくらいの意味になる。すごくてつがくてきなはなしだ。
『純粋理性批判』。こういう写真を撮るときに電子書籍だとさまにならない。
ペーパークラフトを作るに一応あたってざざっと読んだ。むずかしくて読んだそばから9割の内容がこぼれ落ちた。
それをペーパークラフトにした『KANT für die HAND』
ペーパークラフトを組み立てているあいだ、もうすこし『純粋理性批判』の説明を続けよう。
『純粋理性批判』が哲学史においてエポックメイキングなのは、対象を全てあるがままに捉えようとしていたそれまでの姿勢から、「理性」という制約ある人間自身の能力の範疇において捉えようとする姿勢に見方を変えたところだ。
ペーパークラフトは本の中に入っているのだが、本はドイツ語で『純粋理性批判』のあらすじと作り方が両方同時に書かれている。もちろん読めないので勘を頼りにつくった
カントによれば、人間が認識する対象はそれ自体として存在するものではなく、人間のなかに存在する。ものごとはあるがままではなく人間というフィルターを通して認識されるのだ。
じゃあそのフィルターについて考えないといけなくないですか? ということで、カントは感性と悟性(知性)と理性の役割と限界を吟味した。『純粋理性批判』はその仕組について書かれた本である。
こういうこざかしいパーツがおおい
中もドイツ語
世界のあるがままを探求するのが理系だとすると、世界を見る人間自身に目を向ける文系はカントのおかげであると言っても過言ではない。
なんだこれは
ちなみにカントはこの本で、それまでの合理論と経験論の2つに分かれていた哲学をうまいことひとつにしたと言われている。ドラクエとFFをひとつにしたようなインパクトはあるだろう。いわば哲学界の「クロノトリガー」と言ってもいい。
4時間かけて完成した。たたむと意外とコンパクト。
どこまで説明したらいいかわからないが、そういった本である。
説明している間にペーパークラフトを組み立て終わった。
夜の新宿と純粋理性批判
いろいろと説明したがここまで読み飛ばした人に向けて3行で説明すると、
・人間は「感性と悟性(知性)と理性」を通してしかものを認識できない
・それらには働き方と限界がある
・という本
ということになる(3行目が思いつかなかった)。
ではカントの『純粋理性批判』では、理性の仕組みについて、いったいどんなことが書かれているのだろうか?
このペーパークラフトで遊べばきっとなんとなく分かるはずなのだ。
ペーパークラフトで遊ぼう
ペーパークラフトをいじりながら見てみよう。
ドイツ語の文章はわからないが、適当に単語をインターネットで訳しながら理解していくことにする。
まず箱の状態からスタート。外から何か対象がやってくるというところから物語ははじまる。
ここからスタート
何かが入っていく矢印が描いてある。「感性」がこれを受け止める。
感性というのは、機械でいうところのセンサーみたいなものらしい。
入って来たので箱を押してみる。開いた。
空間と時間と書いてある。
つまり感性の形式は空間と時間ということを示している。「なにはなくとも空間と時間ない状態なんて考えられないでしょ?」ということだ。まだ分かる話だ。
このペーパークラフトはこういうふうに、認識の流れを見ることができるようだ。
ここが悟性(知性)
さて進んでいくとここは「悟性(知性)」のコーナー。悟性は感性が受け取った感覚を、形式(カテゴリー)に従って認識していく能力だ。
カテゴリーは人間が元から持っているもので、経験で習得するものではない。「量・質・関係・様態」の4つの中にそれぞれ3つずつ種類があるという。
12個もあるので本で読んだらかなり長くなりそうな部分だが、ペーパークラフトなら一瞥できる。
引き出しの中にはその認識の形式の例文が書いてある。
このペーパークラフト、12個あるカテゴリーが一つ一つ引き出しになっているのだ。抜けないようにストッパーもついている。
組み立てているときはイライラしたが、完成したのを見ていると笑っちゃうほど細かくよく出来ている。
裏側にも純粋悟性の原則が4つ収納してあった。
くしゃくしゃになった部分をつまみ出すと……あ、理性が伸びてきた…?
いよいよ理性の登場だ。理性は悟性をくっつけてまとめ上げる力があるらしい。三段論法なんかも理性のたまものである。
しかし、なんだろう。細い紐みたいな部分に細かい文字でたくさん書いてある。が、ドイツ語がわからないので読むのは難しい。異様さだけが印象に残る。
そして行き止まりには「神の理念」「世界の理念」「魂の理念」という3つの理念が書かれていた。
これら3つの理念は実在しない。理性の向かう先にはあるが、理念として想像できるだけで到達できない。いわば純粋理性の限界の向こう側と言える。なるほど行き止まりである。
そして最後にその隣のフタを開けると…。
超越論的方法論だ!
好きな人は好きな部分ですね。
……そう、ぼくがよくわかってないのである。
さて、以上が『純粋理性批判』のペーパークラフトを買ったぞという自慢である。
長くなってしまったが、感性→悟性→理性、というながれがなんとなくわかった気がする。なるほどよくできたペーパークラフトであった。見た目の異様さに反して意外と堅実な作りである。
遊び心がありながら、本に書かれていたことをうまく立体化しているのではないか。心底いい買い物をしたというものである。
さて純粋理性批判体操
難しい本もペーパークラフトにすると素直なワクワク感が出ることがわかった。
だが、もっと簡単にしたらもっと親しみがわくのではないか。例えば体操に落とし込んだらどうだろう。体操にして、もう一度純粋理性批判を説明したい。
つまり、この記事はある意味ここからが本番である。ほとんど蛇足に見えるかもしれないけどやりたかったのはこっちなのだ。
さっそくやってみよう。
感性の形式から。空間と…
時間がある。手を回して表現しよう。
まずは手で左右に円を描く。簡単な動きなのだが、純粋理性批判の体操だと思ってやると、時間と空間を操ってる感がすごい。
悟性(知性)が、感覚をカテゴリーによってまとめあげて認識する
つづいて悟性の出番だ。悟性は感性から与えれれた感覚をカテゴリーによって認識する。カテゴリーは「量・質・関係・様態」の4つのジャンルにそれぞれ3つずつ種類があるのだった。上下左右に三発ずつパンチをして、それを表現する。
知性とバカが拮抗している感じがしてきた。
純粋悟性の原則だ。脚を前後左右に一歩ずつ踏み出そう
悟性がカテゴリーをしようするための原則がある。純粋悟性の原則には「直感の公理・知覚の先取り・経験の類推・経験的な思考一般の要請」の4つがあるのだった。
前後左右に4回脚を踏み出すことでそれを表現する。原則なので地面を踏みしめる意匠を取り入れてみた。
何を言ってるかもうわからないかもしれないが、いまさらそんなことを言わないでついてきてほしい。
ぐっと屈んで
感性と悟性による認識を普遍化して束ねていくのが理性の働きだが、それを経験の限界を超えて極限まで進めていくと「魂の理念」「世界の理念」「神の理念」という到達できない理念に行き当たる。このあたりの話を超越論的弁証論という。
理性の超越論的弁証論。大きく体を伸ばそう。
『純粋理性批判』の中でどうなのかもはや理解していないのだが『KANT für die HAND』をなぞってみると、「魂の理念」に関する弁証論は「超越論的誤謬推理」、「世界の理念」に関する弁証論は「アンチノミー」、「神の理念」に関する弁証論は「純粋理性の理想」ということになるらしい。(こんな不安な説明いるのだろうか。)
つまりこれを体操に落とし込むためには、3回大きく体を伸ばすという動きにすればいいのだろう。
そしてぐるぐる~っと手を回して、
ほらどうぞ、というような手で超越論的方法論の提示
理念には到達できないものの、より完全な純粋理性の体型を作り上げるにはどうしたらいいかという方法が書かれている部分だ。ここだけ第2部になっていて、方法としては「訓練・基準・建築術・歴史」が挙げられている。
ここは提案をサーブするような感じで、前後左右に手のひらを差し出す動きにしよう。
最後に深呼吸しながら合理論と経験論を総合して終わりである
これで純粋理性批判体操の完成だ。
動画にしてみたのでご覧いただきたい。
どうだろう。親しみやすさは出たのではないか。逆に言うと、親しみやすさ以外ない。
どうしても説明の段階が長くなってしまったけど、ぼくはやりたいことができたので満足です。
今、なんだかわからないのだけど『純粋理性批判』について「わかったぞ」という気がしている。哲学の金字塔と一体になった感じがとてつもない。
それもこれも純粋理性批判体操をしたおかげ。体を動かすだけで読んだことになる体操の完成だ!
……ということはもちろんなく、本の内容を体操に落とし込むときに急激に本の内容が実感として染み込んできたのではないだろうかと思う(理解した、とまでは言わないが)。
学生にはぜひとも読書感想文ならぬ読書感想体操をおすすめしたい。そして、来年の夏は「資本論音頭」をみんなで踊ろう。