20年経っても許せない、3つの理不尽
ぼくは1980年生まれの36歳だが、こんな僕にも思春期はあった。その前後を含む「子ども時代」に大人から受けた理不尽というのは、それから20年以上が経過してもなかなか忘れがたいものだ。
これはぼくが特別に粘着質というのではなく、誰もが1つや2つは抱えているものだと思う。
ぼくが未だに根に持っている「事件」は、主に以下の3つである。
・小1の時、廊下に上履き袋を取りに行ったら、そこで悪ふざけをしていたグループの一人と勘違いされ、担任から一緒に怒られた
・中2の時、体育の授業で実技、ペーパーテストともにクラスナンバーワンの成績をたたき出したにも関わらず、通知表の評価が「3」だった(5段階評価)
・高1の時、通学バスを降りる際に定期券を運転手に提示したら「おい、もっとしっかり見せろ!」と怒鳴られた。
なんだその程度か、と思われるかもしれない。しかし、僕はこれらをいずれも精神的な暴力ととらえている。このことにより悪夢を見たり、うなされたりすることは一切ないのだが、それでも時折思い出して、地味に嫌な気持ちになっている。
今でもバスに乗ると少し緊張する。 ※画像は暴言運転手とは無関係のイメージです
特に中2の体育の一件である。
忘れもしない2学期のこと。学期中の体育は全ての授業が1500m走にあてられた。毎年恒例となっている秋の長距離走イベント「ロードレース」に向けた体力づくりの一環として、とにかく毎回校庭を走らされる地獄のカリキュラムだ。しかし、ぼくはこの授業を楽しみにしていた。
当時、サッカー部で死ぬほどきつい練習をこなしていたぼくはスタミナだけはやたらあり、1500mは体育が苦手な少年が唯一ヒーローになれる競技だったのだ。実際、全10回ほどのレースで僕はオール1位をマークした。まさに、完全優勝である。
皆で登った筑波山。今より少しわんぱくだった
ベストタイムは4分59秒。これは当時の学年トップ15にも入っていたはずだ。細かく数字を覚えているのは、それだけ誇り高かった証だろう。
そうした実技での圧倒的な結果に加え、保健体育のペーパーテストでも90点以上の成績を残した。期末テストの答案を受け取ったぼくはその瞬間、人生初の「体育5」を確信したのである。
「ロードレース」は学年11位だった(120名中)
しかし、結果は「3」だった。当時の相対評価だろうが、今の絶対評価だろうが、「5」以外はあり得ない実績なのだ。あまりの悔しさに身体がふるえた。
「せめて4だろうが!」。親にも思いのたけをぶつけた。母はぼくの無念を受けとめ、存分に共感してくれたが、学校に乗り込んで抗議してくれたりはしなかった。この時ばかりは、親がモンスターペアレントでないことを呪った。
体育教師はとにかくゴリゴリだった
まあ、納得できないなら自分で抗議しろという話なのだが、それをためらわせる理由があった。
体育教師は竹刀を持っていたのだ。
いかに理不尽であれ、リアルに竹刀持ち歩いている教師に中学生が抗議などできるはずがない。彼の恐怖政治は完璧に機能していた。
サッカー部でも補欠だったし、確かに運動神経抜群というキャラではなかった。でもね
こうしてぼくは「体育5」という誉れ高き勲章を手にできる、人生唯一の機会を失ったわけだ。そして、未だに根に持っている。
でも、もういいだろう
しかし、もういいかげんケリをつけたい。向こうはとっくに忘れている(というか、たぶん最初から気にしていない)のに、こちらだけが暗い感情をいつまでも引きずっているのはバカらしい。
ふんぎりをつけるには、主に以下の3つが考えられるだろう。
・忘れる
・許す
・謝らせる
しかし、「忘れる」はこれまで何度も試みては叶わなかったことである。ぼくは「体育5」に、そんなにも憧れていたのか。そう思うと、また泣けてくる。
次に「許す」だ。人を許すには、まず相手方の立場に立って考えるプロセスが必要である。先生はなぜ、明らかに「5」に値するぼくに「3」を与えたのか?
(1)生徒の数が多すぎて、つい評価が適当になってしまった
(2)別の生徒と間違えた
(3)単純にぼくが嫌われていた
どれも有力なのだが、改めて卒業アルバムに写る当時のぼくの写真を見返していると、どうも(3)がくさいのではないかと思えてくる。
当時のぼくはとにかく、常に「ふざけている」のである。
まじめな集合写真でもふざけている(モザイクなしが筆者)
みんながカメラ目線なのに、別方向を指差してすっとぼけている
隙あらばヘンな顔をしている
当時、ひょうきんもので通っていたぼくは、仲良しだったとおる君とともに「いかにふざけるか」に情熱の限りを尽くしていた。おかげで、卒業文集の「おもしろい人ランキング」では3位という高評価を得ている。
修学旅行のバスにて。みんながカメラ目線なのにとおる君と見つめ合う中3の筆者。前みろばか
卒業アルバム用の集合写真でも
微妙にちょけた顔をしている。その時々におけるTPOの許容範囲内で、とにかくふざけようとしている
まともに写っている写真がほぼない。ずーっとふざけているのだ。こいつは嫌われて当然という気もする。ぼくだって、こんな中坊は嫌いである。
しかし、だからといって、評価を歪めていい理由にはなるまい。どうせ、「この生徒は運動神経がよくない」というイメージだけで適当につけたんだろう。
先生のところへ行ってみる
まあ、「許す」にしても「謝らせる」にしても、こうやってウダウダ考えているだけではらちがあかない。
そこで思い切って、「現在の先生」を見に行ってみることにした。そして、今でも竹刀を持っていたら許す(怖いから)。持っていなかったら謝らせる。あれから20年も経っているのだ、マッチョな体育教師もさすがに衰えていることだろう。相手が弱るのを待ってから報復を敢行するという、最低のお礼参りである。
果たし状を片手に先生の名前を検索したら、すぐにその近況が分かった。ネット社会恐るべしである。
人物の特定を避けるため情報を限定するが、先生は母校からそう遠くない某市の中学校で、今も体育教師をしているようだ。とある運動部の指導者として実績を重ねており、日本選抜的なユースチームのスタッフにも名を連ねたりしていた。す、すげえじゃねえかこの野郎。
空き地という空き地で開発工事が行われている街だった
心象風景のようなどんよりした天気
先生がいる中学の生徒だろうか?
着いた。ここに先生がいる
しかし、足を運んだところで母校でもない中学校に入れてもらえるわけはない。それどころか、周囲をうろついているだけで完全なる不審者だ。元教え子ですなどと主張したところでアポイントが通るはずもなく、実際に会うことは難しいだろう。
実際にできるのは、遠くから先生の現在を伺うことだけだ。
果たして、先生はいるのか?
いた
部活の時間を狙ったのがよかったのか、あっけなく先生は見つかった。身体はひと回り小さくなったようだが、鋭い眼光、威圧感は昔のままだ。たぶん現役の教え子たちからは、今も恐れられているのだと思う。
だが、そのときぼくが抱いたのは、不覚にも温かい感情だった。20年前に怖かった先生が、今も現役で怖い。それがなぜか嬉しかったのだ。
せんせい…
「怖い」と言っても中学生の視点からそう思えるだけで、、当時の先生の年齢を超えた今の立場で見る「鬼の体育教師」はぜんぜん鬼じゃなかった。むしろ、「いい年こいて」、声を張り上げ熱血指導する姿がかっこよく見えた。
ちなみに、竹刀は持っていなかった。
すっかり毒気を抜かれてしまったな。
のどかだねー
本当は「5」と評価してくれていたのに、スタンプを押し間違えたのかもしれない。誰にでもミスはある。
なんせ、卒業アルバムの部活動紹介のページで、顧問をしていた運動部の女子部と男子部の写真とキャプションが入れ替わっている誤植に気づかないような先生なのである。通知表の一件も、うっかりしていただけなんだろう、きっと。まあ、間違えんなよとは思うが、そう考えれば幾分モヤモヤは晴れた。
冗談で用意した「果たし状」を破り捨て、「許す」という結論で折り合いをつけることにした。
思い出補正はすごい
トラウマというほど大げさではないが、思春期の怨念みたいなものを長年にわたりこじらせている人は少なくないと思う。そんなときは、とりあえず怨念の相手の現在を見に行くのがいいと思った。会うとか話をするとかケンカを売るとかじゃなくて、「ただ見に行く」。
懐かしさによる思い出補正で心が寛容になるし、実際に当時とは違った目線で、相手のことをとらえることができるはずだ。