コラボ企画 2013年11月25日

身近にある20周年を思う

代官山とフェラーリとおれ(※本文とは特に関係ありません)
代官山とフェラーリとおれ(※本文とは特に関係ありません)
どんなことであれ、長く何かを継続するというのは尊い。それが10年、20年ともなればなおさらだ。ふだんはあまり気に留めることもないが、じつは身近な場所にも人知れず長い年月を重ねてきたものは溢れているのだ。

そこで、今年20周年を迎えたモノ、コト、人にフォーカスしつつ、20年前、つまり1993年という時代の風景がどんなだったか、今一度思い出してみたい。

1980年生まれ埼玉育ち。東京の「やじろべえ」という会社で編集者、ライターをしています。ニューヨーク出身という冗談みたいな経歴の持ち主ですが、英語は全く話せません。

前の記事:日本最高の漬物を決めるグランプリ

> 個人サイト Twitter (@noriyukienami)

あのチョコレートが20周年

なぜ突然そんなことを言い出したかというと、当サイトでも何度かお世話になっている森永製菓の人気チョコレート「ダース」が今年20周年を迎えたからだ。これはめでたい。
おじさんでも照れずに食べられるチョコレートだと思う
おじさんでも照れずに食べられるチョコレートだと思う
20年。改めて言葉にすると、やはり何とも重い響きがある。当時、おしめの赤ちゃんも成人となり、働き盛りのお父さんは定年を迎える。どんなに優しかった女房だって、20年も経てばつれなくなる。

日数にして7300日、時間にして17万5200時間。それだけの歳月、いつまでも変わらずそこに有り続ける。それが、どれだけ貴重なことか。
おめでとう!
おめでとう!
さて、では今から20年前、1993年とはどんな時代だったのか? ざっと当時の出来ごとを振り返ってみよう。時代はバブルがはじけた2年後。日本社会が、その後長く続く暗闇の入口に足を踏み入れた頃である。7月の衆議院議員総選挙では自民党の議席が過半数を割り、38年ぶりの政権交代も起こった。まさに、激動の年といえるかもしれない。

スポーツ界でも印象的な出来事が多い。曙が外国人力士初の横綱になり、若貴兄弟とのライバル対決で角界を盛り上げた。また、Jリーグが開幕したのもこの年で、10月にはドーハの悲劇も起こっている。

あの時、日本がワールドカップ常連国になるなんてポジティブな未来はとても描けなかったし、若貴がこんなことになるなんて想像もできなかったし、曙がちゃんこ屋ではなくステーキハウスの大将になるとも思わなかった。20年…ああ、20年。
ちなみに、アフター5に代官山に繰り出すのが当時のトレンディ
ちなみに、アフター5に代官山にくりだすのが当時のトレンディ

トレンディが正義だった当時

1993年当時を振り返るにあたり、当時のトレンディファッションに身を包み、これまた当時のトレンディスポットである代官山のカフェーにくりだしてみた。肩パットがしっかり入ったダブルのスーツは当時の最先端ファッション。男性用トイレのピクトマークみたいな逆三角形がモテの象徴だったのだ。当時のJリーガーは、たぶんみんなこんな格好をしていた。あと、当時絶大なる人気を誇っていた男性2人組デュオの片方もこんな格好していた気がする。こんな太ってなかったけど。

その時、おれの横を真っ赤なフェラーリが駆け抜けた。まさにYAH YAH YAHな気分だ
その時、おれの横を真っ赤なフェラーリが駆け抜けた。まさにYAH YAH YAHな気分だ

20年間使い続けているドライヤー

上の写真は、たまたまトレンディな車が横を通り過ぎた瞬間をおさえたものだが、まるで愛車みたいに見えるのは僕がトレンディだからだろう。



本題に移ろう。20年についてである。まず取り上げるのは「20年間愛用しているアイテム」だ。いくら物持ちがよくても、20年間同じものを使い続ける人はそうはいまい。
と思ったら、すごい近くにいた。当サイトライターの安藤さんが持っているこのドライヤー、20年間愛用している品だという
と思ったら、すごい近くにいた。当サイトライターの安藤さんが持っているこのドライヤー、20年間愛用している品だという
これはそうとうな思い入れがあるに違いない。話を聞いてみた。

──いつ買ったものですか?

「ちょうど20年前、ひとり暮らしを始めるタイミングで。自分で買ったんじゃなくて、たぶん母親がダンボールで送ってくれた生活用品一式の中に入っていたものだと思います」

──お母さんの愛情が詰まった思い出の品ですね。そうとう思い入れが強いでしょう。

「いや、ぜんぜん 。確かにボロいけどまだ使えるから使っているだけで、それほど大した思い入れはないっす」

お金がなかった時、これのHOTを暖房代わりにしたとか、いったん質屋に入れたけどお金を溜めて買い戻したとか、そういうエピソードを聞きたいのに安藤さんの答えは意外にもそっけない。「単に捨て時がなかったんですよ」と安藤さんは言うのだが、ドライヤーの状態を客観的に見ると、捨て時は何度も訪れているように思えてならない。
【捨て時その1】送風口の先端が紛失した時
【捨て時その1】送風口の先端を紛失した時
【捨て時その2】コードのビニールがめくれ、電線が剥き出しになった時
【捨て時その2】コードのビニールがめくれ、中の線が剥き出しになった時
【捨て時その3】切り替えのスイッチがいかれ、「LOW」しか使えなくなった時
【捨て時その3】切り替えのスイッチがいかれ、「LOW」しか使えなくなった時
──でもこれ、けっこう色んなところ壊れてますよね。「弱風」しか出ないし、送風口の先端なかったらちゃんと乾かないでしょ。

「いや、ぼくそもそもドライヤーあまり使わないんですよ。嫁もパーマだし。子どももこれを使ってるけど、べつに不満はないですよ」

──そこまで使い続けるからには、そうはいってもやはり愛着が強い…

「いや、ぜんぜんないっす(食い気味で)」

パーマだからドライヤーを使わないという理論はよく分からなかったが、とにかくそんなに大層な思い入れはないようだ。20年モノならではのエピソードはとくに引き出せなかったが、安藤さんの物持ちの良さっぷりはとてもよく分かった。ちなみに、「じゃあいつ捨てるんですか?」と聞いたら「風が出なくなったら」と言っていた。ぎゃふん。
ちなみにシールはちゃんと剥がさないのが安藤流
ちなみにシールはちゃんと剥がさないのが安藤流
ただ、安藤さんは我が子に「モノは大切に使うように」と教育しているそうで、その象徴がこのドライヤーなのかもしれない。父親がここまで筋金入りだと、そりゃあ物持ちの良い大人に育つだろう。
トレンディーな味だぜ(※本文とは関係ありません)
トレンディーな味だぜ(※本文とは関係ありません)

あなたの周りにある20年物を教えてください!

身近にある20年以上使っている物、20年前に買った物、20年続いている活動などあれば「20年物見たいわ」に投稿してください。お待ちしています!

森永製菓を直撃

せっかくなので森永製菓の担当者にも20年にまつわるアレコレを聞いてみよう。対応してくれたのは「ダース」のマーケティングを担当するYさんだ。
トレンディに2ショット
トレンディに2ショット
──20年前は何をしていましたか?

18歳、高校生でしたね。ちょうど受験でしんどい時期だったと思います。


──追い込みの時期ですね。

「そうなんですけど、あまり身が入っていたとはいえないかも。勉強よりアイドルにハマったり、あ、ミポリン(※中山美穂。なお、本人は「美穂ちゃん」と呼んでいた。Yさんいわく、ファンはミポリンとは呼ばないそう)なんですけどね、急に『ときめきトゥナイト』って少女漫画が読みたくなって、一気に全巻買ってきて読んだり。あと、ゲームをやりだめしてから受験勉強に入ろうとしたら視力が2.0から0.5くらいまで一気に落ちて。周りからは勉強したから目が悪くなったと思われてたみたいです。ファイナルファンタジーをずっとやってただけなんですけどね」


──じゃあ成績は悪かった?

「どうなんでしょうね。でも、一回英語の模試で奇跡の点数をとったことがありました」
その時の成績表を、20年間保管していたYさん
その時の成績表を、20年間保管していたYさん
「代々木ゼミナールの模試なんですけどね。見てください、英語が全国9位なんです。人生でいちばん英語ができた瞬間ですね。とにかくうれしかったのでずっととってあったんです」

──でも、数学が23点ですね

「わっはっは、ヒドイですよね。数学はできた記憶があったんだけどなあ…」
明(英語)と暗(数学)がハッキリ分かれた20年前の成績表
明(英語)と暗(数学)がハッキリ分かれた20年前の成績表
英語の答案。マルだらけ
英語の答案。マルだらけ
一方、数学の答案。いっぱい書いてあるけど×
一方、数学の答案。いっぱい書いてあるけど×
──なんで英語だけこんなに良いんですか?

「当時、お気に入りの赤ペンがあったんです。とにかくそれを使いたくて。それこそ、すりきれるまで英単語を書いた。AからZまで、辞書を開きながらとにかく書くっていうことをしていたら、自然と覚えていたみたいですね。受験生は良いペンを買うと成績が上がるかもしれません」

──でも、数学は全国913位ですね

「ねえ、こんなに悪かったんですね。数学が得意な記憶があったんだけどなあ(2回目)。わっはっは。こんなに一生懸命書いてるのにねえ。ぜんぶ間違ってますね。わっはっは。偏差値45って逆になかなかとれないですよね。切ないですね、これ」
当時の思い出のノートも、大事にとってある
当時の思い出のノートも、大事にとってある
赤ペンでびっしり書かれた英単語
赤ペンでびっしり書かれた英単語

ほとばしるミポリン愛

──ところで、当時は何に夢中になっていましたか?

「プールバーによく通ってましたね。当時、ビリヤードとボーリングがめちゃくちゃ流行ってて。あと、ポケベルを打つのがめちゃくちゃ早かったですね。でもやっぱり、一番はミポリンですね」


──ミポリン愛はかなり強いようですね。

「その頃は南野陽子、中山美穂、浅香唯、工藤静香が4大アイドルといわれていたんですけど、ぼくは断然ミポリンでした。中学生の時からはまっているので、20年どころかもう30年近くになります」

──グッズもかなり集めたとか。

「当時はへんなグッズがいっぱいあってね。たとえば、ベストテンの企画で、抽選で『ミポリンの吐息が入っている缶』が当たるっていうのがあって。いま思えばバカっぽいけど、なんか夢がありますよね」

──ほかにはどんなグッズが?

「ドン引きするくらいたくさんありますよ。レコード、CDはぜんぶありますし、ポスター、会報誌、テレカ、切り抜きとか。それを見ると、当時の純粋な気持ちを思い出しますね」
ミポリンの魅力を語るYさん
ミポリンの魅力を語るYさん
──20年以上経った今もファンってすごいですね。

「20年以上続けていると、もうブレないんですよ。ふつうはやはり、卒業するタイミングってあるんですよね。追いかける対象が結婚した時とかね。その時に離脱せずに次の扉を開けるかどうか。私はまんまと開けちゃったんですね。他にもかわいいなと思うアイドルはいたんですけど、誰が出てきてもミポリンは別格。もう思い出のすべてなんですよね」


──20年続けてよかったことは?

「本人は今はフランスに住んでいますが、こっちに映画の宣伝で来た時に、ファンクラブの集いみたいのがあったんです。その時はじめてすごい近い距離で会えた。長くファンやってるといいこともあるもんですね」

コラボ記事としては森永ダースの開発秘話とかを聞くべきだったのかもしれないが、ほぼ全編にわたってミポリンの話になってしまった。ミポリン、おそるべし。

あの「レインボーブリッジ」も20周年

さて、次に紹介する20周年は「レインボーブリッジ」である。今やお台場のランドマークとなったこの橋が完成したのも1993年、今から20年前だ。
完成時の様子(画像提供:首都高速道路株式会社)
完成時の様子(画像提供:首都高速道路株式会社)
建設当時の話を聞くため、首都高速道路株式会社を訪ねてみた。
トレンディから普通のおじさんに戻りました
トレンディから普通のおじさんに戻りました
応対してくれたのは、首都高速道路の並川賢治さん
応対してくれたのは、首都高速道路の並川賢治さん
──20年前の建設当時、並川さんのご担当は?

「レインボーブリッジの設計部門にいました。橋梁全体の安全性とか信頼性などをチェックしたり、図面を描いたりする、デスクと現場の間を橋渡しする部門です」


──あ、橋だけに。当時、何歳でしたか?

「20代後半でした。入社5年目くらい。プロジェクトには90年~93年までの約4年間関わっていましたね。私は施工がはじまって間もない頃、土台をつくりはじめている時に参加したという感じです。なので、私が入った時には橋の種類や工法、デザインなどはほぼ決まっていた。私の役割としては、それらのイメージを着実に構造物として形にしていくことでした」
建設がスタートしたのは1990年。ちょうどバブル真っただ中だ
建設がスタートしたのは1990年。ちょうどバブル真っただ中だ
──入社5年目の身としては、かなり大きな仕事だったんじゃないですか?

「そうですね。確かに当時の自分としては入社以来のもっとも大きな仕事だったかもしれません。このプロジェクトは、橋梁メーカーやゼネコンなど周囲の仕事相手も一流の人間ばかりでした。対して、自分は若く、経験も知識もまだまだ。一流の人間の話を理解するために、とにかく勉強して、がむしゃらに食らいついていきました。この仕事は、自分をそうとう鍛えてくれたと思います」
羽田空港に近いため高さ制限があったり、航路の幅をとる必要があったりと、色々制限の多い現場だったようだ
羽田空港に近いため高さ制限があったり、航路の幅をとる必要があったりと、色々制限の多い現場だったようだ
──遊びたいとは思わなかったですか? 世の中はバブルでしたよね。

「とにかく仕事ばっかりでしたね。でも、おもしろかったですよ。現場の近くに『ジュリアナ東京』があって、工事の立ち合いに行った時、橋梁の上で監督していたら、夜中の2時くらいに下の倉庫街でボディコンのお姉さんがうろうろしているんですよ。下は随分と賑やかだなと思いながら、橋桁の上でこっちは仕事してて。良い悪いは別として、なんだか楽しい時代でしたよね」

もうひと息だ。がんばれ!
もうひと息だ。がんばれ!
──完成の日はどこにいましたか?

「橋は8月に完成したんですが、じつは自分は直前の5月に異動していて、完成時は本社にいました。だから、現場にはいなかったんですよ。でも、時間通りに開通したということを聞いて、やっぱり感慨無量だったですね。同時に、自分の娘を嫁に出すような、自分の手から離れていくような寂しい気持ちも少しありました」
完成間近の橋を祝福するような花火大会
完成間近の橋を祝福するような花火大会
──開通時に現場にいられないのは悔しいのでは?

「でも、現場にいても、橋をゆっくり見て感慨にふけるようなヒマはなかったと思います。その頃は開通式典に出られるような立場でもないですし、現場の若い社員は、並んでいる車の交通整理の手助けをしたりとか、そういう作業に駆り出されてけっこう大変なんです。特にあの日は大雨でしたから、現場にいた社員は本当に大変だったと思います。私は社内にいて、申し訳ないなと思いながら」

ちなみに「レインボーブリッジ」という名前は公募で決められたそう
ちなみに「レインボーブリッジ」という名前は公募で決められたそう
──20年経っても、自分が作った橋はやっぱり気になりますか?

「そうですね。しょっちゅう足を運びます。千葉にある妻の実家に行く時なんかは、本当は7号線で行くほうが近いんですけど、わざわざレインボーブリッジ経由で湾岸線を通っていきますよ。遠回りになるけど、ちょっと見に行こうかって。特に、自分で形を決めたところは10年経っても20年経っても気になるもの。そこを車まで通行する度に、つい目がいってしまいます。ちなみにアンカレイジ(※)の外装デザインは私が決めました」

※吊り橋のケーブルを定着させるための重いブロック
「今でもつい、足を運んでしまいます」
「今でもつい、足を運んでしまいます」
着工時の図面。当時としては画期的な技術も数多く採用されている
着工時の図面。当時としては画期的な技術も数多く採用されている
並川さんが外装デザインを決めたアンカレイジ
並川さんが外装デザインを決めたアンカレイジ
工事が節目を迎える度に、みんなでお祝いをして英気を養ったという。「余裕のある時代だったんでしょうね。色んな意味で」と並川さん
工事が節目を迎える度に、みんなでお祝いをして英気を養ったという。「余裕のある時代だったんでしょうね。色んな意味で」と並川さん
ちなみにこのレインボーブリッジ、当時としては画期的な技術や工法がいくつも採用された、先進的な橋だったようだ。たとえば、現場は海中の地盤が緩く、海底の奥深くまで基礎を掘削して沈める必要があった。海中で地盤を掘る作業室の気圧は人体が耐えられるレベルを超えていたため、機械による遠隔操作技術を採用している。現在では海底におけるこうした無人化工事は確立されているが、当時としては最先端の技術だったようだ。

年末年始限定のレインボーカラー
年末年始限定のレインボーカラー
いまでは観光名所としてもすっかりおなじみになったレインボーブリッジ。その裏には様々な物語があったのだ。

東大を卒業して20年

ラストの20周年インタビューはこの方々。
「乾杯!」
「乾杯!」
この方々、全員東京大学の卒業生。日本の最高学府を卒業して、今年でちょうど20年になる人たちなのだ。
そんな彼らが焼くホルモン。それすら、心なしかかしこく見える
そんな彼らが焼くホルモン。それすら、心なしかかしこく見える
東京大学では今年、卒業20周年を迎えた卒業生を集め、当時を振り返る「20周年学年会」を開催した。彼らはそこで幹事を務めた面々。この日は、その打ち上げの席にお邪魔させてもらったというわけだ。
東大安田講堂地下の中央食堂で行われた20周年学年会の様子。中央で挨拶するのは現・東大総長の濱田純一氏
東大安田講堂地下の中央食堂で行われた20周年学年会の様子。中央で挨拶するのは現・東大総長の濱田純一氏
──こういう同窓会って、いままでにもあったんですか?

「これまでもクラスやサークル単位のものはありましたが、学年全体でやるのは我々の代では初めてでした。なんせ一学年で、だいたい3400~3500名いますので。今回の参加者は60名くらいでしたが、初対面の人がほとんどでしたね」(東京大学大学院准教授で、20周年学年会幹事の狩野直和さん)


──なぜ、幹事を?

「この同窓会自体は東京大学が主催する『ホームカミングデイ』というイベントの一部なんです。ちなみに、5年後の2018年のホームカミングデイでは卒業25周年学年会を行う予定です。私は卒業生であると同時に、東大の教員もやっていますので、同窓会室から幹事をやってくれと頼まれまして」

──まさに、エリートだらけの同窓会ですね

「みんな普通のおじさん、おばさんですよ。当日は、ご家族参加を歓迎していたのでお子さん連れやご夫婦で来られる方も多くて、和やかな雰囲気でしたね」

──どんな職業の方が多かったですか?

「官僚、銀行員、商社マンなどが多いですかね。私のように大学に残って、教授や准教授になった人間もいますし。ちなみに議員の丸川珠代さん、宇宙飛行士の山崎直子さんも同級生です。当日は残念ながら来られませんでしたが」
名刺交換してみたら、みなさん名だたる企業にお勤めの方ばかりでした
名刺交換してみたら、みなさん名だたる企業にお勤めの方ばかりでした
──ちなみに、みなさんはどんな学生だったんですか?

「私はそんなにマジメな学生じゃなかったですね。大学は好きでしたけど、勉強はそこまで好きじゃなかったし。学生時代はけっこう毎日ボーっと過ごしていた気がします」(狩野さん)

「20年前って、学生のイメージが今とぜんぜん違いますよね。我々の頃は、授業に出ないのが普通でしたから。朝からサークルやって、そのあと食堂に集まってうだうだして、夕方になったらまたサークルっていう毎日でした」(同大学最大級のサークル「東大スポーツ愛好会」に所属していた安藤大輔さん)

──東大生なのに? 死に物狂いで勉強しないと落第しちゃうのでは?

「なんとかなっちゃうんですよ。じつは東大には試験対策委員会、略して『シケタイ』っていうのが各学部にあるんです。当番制で係を決めて、過去問の答案を用意したり、授業のノートのまとめをみんなに配布したりして、学生同士で協力し合うわけです。要は、皆で効率よく試験を乗り切りましょうと。私が通っていた駒場キャンパスでも各クラスで最初に『シケタイ』の担当科目を決める伝統がありました。私は現在は教員の立場ですので、できれば学生には自分で勉強してほしいと思うんですけどね…」(狩野さん)

──入学時はバブル全盛。バブル期の東大生ってどんな感じだったんですか?

「東大生って遊び方を知らないので、街に出ていい思いをした人は少なかったんじゃないでしょうか。周囲を見渡しても、バブルの恩恵を受けている人なんてほとんどいなかったように思います。他の大学に比べるとバイトしている人もそんなに多くなかったですしね。あっても家庭教師のバイトがほとんどで、ぜんぜん華やかじゃない」(安藤さん)

──東大生の家庭教師! ちなみに時給は?

「当時の時給は3500円くらいでしたかね。当時は今みたいにオーガナイズされた組織がなかったんで、知り合いのお子さんを教えたり、自分でスーパーとかショッピングセンターの掲示板にチラシを張って生徒さんを募ったりしていました。3500円っていうのは高いか安いかわからないけど、中抜きする人がいないから身入りは多かったですね。でも、同じ東大でも学部によって単価が違うんです。理三(※理科三類。東京大学の中でも最難関といわれる)なんかだと5000円や1万円とかって話も聞きました」(狩野さん)
宴もたけなわ
宴もたけなわ
ちなみに、狩野さんたちはセンター試験になる前の「共通一次試験」を受けた最後の世代なんだそう。試験の1週間前に昭和天皇が崩御されて元号が変わったため、共通一次の最初の表紙は「平成元年」ではなく「昭和64年度入学試験」と書かれていたそうだ。そんなことを今でもよく覚えているという。

たまには20年の歩みを振り返ろう

20年という年月は人の環境を大きく変える。しかし時には、当時に強く思いを馳せてみるのも大事なことかもしれない。未熟で青いながらも頑張っていたかつての姿が、今の自分に教えてくれることもきっとあるはずだ。

そして、ぼく自身も、ダースのように息の長いオトコになりたいと思っている。
アディオス!
アディオス!

「ダース20周年」を祝うイベント開催!

今年めでたく成人を迎える森永ダースを祝って、12月5日にカルカルでイベントを開催します。

森永ダース生誕20周年記念「おとなのフェティッシュ大会」
2013/12/05 [木] よる
Open 19:30 Start 20:00 End 21:30 (予定)
@東京カルチャーカルチャー
前売チャージ券・森永ダース1箱付き500円!!
チケットはこちら

伝説のイベント「フェティッシュ大会」がおとなバージョンとして帰ってきます。新ネタ満載ですのでぜひお越しください。
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