字面通りに「頭がおかしい」
この記事のタイトルは「顔から手足を生やす」というものだ。言いたいことはそれだけで、写真で見せるとこういうことになる。
こんにちは
もう全て言い切った感じがあるのだが、ここから先はまず、ここに至るまでの精神的な経緯をお知らせしたい。
鏡に映る自分が僕を迷わせる
小さい子供が成長していく過程で、顔から手足が生えた人間の姿を描くことがある。全ての子がそうではないだろうが、子供の絵の一つの典型例として見られるようだ。(参考→「"顔から手足"」で画像検索)
子供独特の表現がなんともかわいらしい。ならば、そのかわいさいただきましょう、という発想だ。
子供独特の表現がなんともかわいらしい。ならば、そのかわいさいただきましょう、という発想だ。
カチューシャと平ゴムを組み合わせて
手足をくっつける
まずはプロトタイプの制作をしよう。ホームセンターなどを回って仕組みを考えたところ、カチューシャとゴムを組み合わせて頭部に装着させる方法が安定しそうだということがわかった。ベースパーツに仮の段ボール製パーツを付けてみる。
顔から手足ベータ版
手足には針金を入れてポージング自在
鏡に映った自分を見て思う。これはなんだろう。
小さい子供が描く絵とは違うものをにじませている気がする。イメージしていたものと今見えている結果との方向の違いがむごい。
小さい子供が描く絵とは違うものをにじませている気がする。イメージしていたものと今見えている結果との方向の違いがむごい。
まだ垣間見える迷い
いろいろ試すうち、ボードを持ってそこから顔を出すようにすると、顔から手足マンがより強調されることを発見。ただ、発見したところで方向性の修正がなされたわけではない。
自分の写った写真を見て思う。これって、どうなんだろうか。心配になったので、ここまでの様子を説明するメールを編集部に送って返信をもらった。
自分の写った写真を見て思う。これって、どうなんだろうか。心配になったので、ここまでの様子を説明するメールを編集部に送って返信をもらった。
たぶん勇気づけられてる
メールの冒頭はこうしたものだった。やんわりとゴーサイン、という解釈でよいだろうか。
やっぱりかわいくはないよね…、という痛みを抱えながら、正式版の制作に進もう。
やっぱりかわいくはないよね…、という痛みを抱えながら、正式版の制作に進もう。
イマジネーションは現実へと
段ボールで作ったプロトタイプを元に、材料を揃えて正式版を作ろう。
試行錯誤してたどり着いた材料たち
できたよーん
袋状に縫ったフェルトに綿を詰めて針金を通し、ベースパーツにくっつけてあっさりと完成。思考は現実化するのだ。
ただ、ゆるキャラ的なテイストが出るんじゃないかと思っていたのは私の見込み違いだったらしい。そこには、ゆるくもきつくもない存在感がにじむ。
ただ、ゆるキャラ的なテイストが出るんじゃないかと思っていたのは私の見込み違いだったらしい。そこには、ゆるくもきつくもない存在感がにじむ。
陽気な感じで
ちょっとすまして
ボードを出して顔から手足マンの存在感をより高めてみる。若者言葉はあまり積極的に使わないようにしている私だが、写真を見て「キモいっていうのはこういうことか…」という思いが自然と湧いてきた。
子供の絵からヒントを得てかわいさを求めた試みは、思った以上の鋭さを伴って、ブーメランのように自分へと突き刺さる。
子供の絵からヒントを得てかわいさを求めた試みは、思った以上の鋭さを伴って、ブーメランのように自分へと突き刺さる。
これからどうしよう
しばらくポーズを取って、心にやってきたのは虚無感。着想を実体化するところまではよかったが、そこから先、自分が何をしたいのかが見えてこない。
いったん広告です
迷いを乗り越えろ
新鮮なフルーツと
先が見えなくなって、とりあえず果物たちを自分の前に並べてみた。他の物体と存在感をぶつけ合うことで、偶発的なストーリーが生まれるかもしれないからだ。
しかし、そこにあったのは何かしらの物語性ではない。わかんない感じがより強調されるに過ぎないという空しい結果だけだ。
しかし、そこにあったのは何かしらの物語性ではない。わかんない感じがより強調されるに過ぎないという空しい結果だけだ。
持てる能力を生かして
気をつけ!
顔から生えている手足には針金が入っているので、ポージングを変えることができる。その特性を生かして、とりあえずは気をつけしてみた。
前へならえ!
体育座り
やればやるほど、着想を得たはずの子供の絵のかわいらしさから遠ざかっていくような気がする。
このまま終わっていいのか
原点から射してきた光
先が見えなくなったなら、改めてその出自に立ち返ろう。思い出そう、この「顔から手足マン」は、子供の絵から着想を得たものだった。
力を貸して欲しい
そういうわけでやってきたのは、当サイトのライターであるT・斎藤さんのご実家。2人のお子さんを連れて帰省中のところにお邪魔した。
そりゃウケるよな
こういう状況だもんな
子供が顔から手足の生えた人物像を描くのなら、大人である私はその像に歩み寄ろう。さあ、顔から手足マンとなった私を描いてくれたまえ、というわけだ。
その話の展開に論理性があるのかは不明だが、とにかく子供にウケたというのは事実。目に見えるまま、ありのままの私をスケッチブックに写し取って欲しい。
その話の展開に論理性があるのかは不明だが、とにかく子供にウケたというのは事実。目に見えるまま、ありのままの私をスケッチブックに写し取って欲しい。
うんうん、雰囲気出てる
上手に描けたね!
まず描いてくれたのは、5歳の弟くん。写実性よりもダイナミックな作風が印象的。顔からの手足ダイレクトが読み取れつつも、翼をはばたかせているようにも見える意味の二重性が深い。
私の謎ビジュアルにもっと引かれるかと思っていたが、「今日、泊まっていってよ!」と声をかけてくれるほどにフランク。街でこういう怪しいおじさんに声かけられても、ついていっちゃダメだ。
私の謎ビジュアルにもっと引かれるかと思っていたが、「今日、泊まっていってよ!」と声をかけてくれるほどにフランク。街でこういう怪しいおじさんに声かけられても、ついていっちゃダメだ。
私と紙の間で何度も視線を往復させていたお姉ちゃん
その点、私を見るなり「無理!…無理!」と繰り返していた小学3年生のお姉ちゃんの反応は実に妥当。面白さだけに流されない冷静がそこにある。
わかってる。君の反応は正しい。その心の壁を越えて、なんとか描いて欲しいのだ。
わかってる。君の反応は正しい。その心の壁を越えて、なんとか描いて欲しいのだ。
おお、うまい!
おじさんそっくり!
躊躇しながらも描いてくれた作品は、まさに顔から手足。目の前の現実をしっかり捉えつつ、私の実像から無駄な濃さやうざったさを削ぎ落とし、「顔から手足マン」として成立するために必要な要素だけを抽出させている。
穏やかで明るい笑顔を浮かべているのも、モデルとしてはとても嬉しい。そう、顔から手足マンは決して恐ろしい存在ではないのだ。
穏やかで明るい笑顔を浮かべているのも、モデルとしてはとても嬉しい。そう、顔から手足マンは決して恐ろしい存在ではないのだ。
持ち帰って今も自室に飾ってある
このあとお姉ちゃんがもう一枚描いてくれた絵には、仲良く並んだ動物たちとともに、正常状態の私と、顔から手足マンとしての私との2人を描いてくれていた。人間の多面性を無意識のうちに表現したのだと思う。
なんてあったかい絵なのだろう。僕はこういう形で自分と向き合うために、顔から手足マンになったのかもしれない。
なんてあったかい絵なのだろう。僕はこういう形で自分と向き合うために、顔から手足マンになったのかもしれない。
自分でもやばいと思った
迷いを超えて顔から手足マンとなった私を待っていた、ハートウォーミングな結末。そして、上の写真はもう一度それを迷いへと巻き戻す。試しに毛布をかけて横になったら、今回一番まずい感じがする一枚となった。