湖を見たことで変に背伸びしてしまっていた沼めぐり。もう一度初心に戻って、名もなき沼をしっかりと見つめたい。
いいよ、いいよ
基本をきっちりと押さえた感じの路傍の沼。水のよどみ具合、奥に茂っている藪具合など、過不足ない程度に沼だ。朽ちかけている木の棒にところどころ切れた有刺鉄線が張られているのもよい。
浮かんでいるのは藻だろうか、水面の趣きをより沼らしくしている。
ただ、上の写真のように斜め上から見ている分にはわからないのだが、水面だけを真上から眺めるとまた別の様相を呈してくる。
木々の斜めっぷりもいい味
やはりあまり仔細にまで目をやらない方が、自然な気持ちで沼の味わいを楽しめそうだ。初心者・上級者それぞれ、自分の距離で接するのがよいのだと思う。
●沼が約束されたバス停
コアな沼の様子を堪能したところで、また趣向を変えた沼めぐりをしてみたい。出会い頭の沼も楽しいものだが、偶然性が強すぎるのも事実。そうした要請に応えるかのように、沼が全面的にフィーチャーされたバス停というのもあるのだ。
質問の答えになってない。
その上、昔のことでさえ水田という表現。それは沼ではないじゃないか。どうも釈然としない。言外に沼はないと言われているのだろうか。
…じょ、縄文時代。そんなスケールでさかのぼらなくちゃいけないのか。そこまで昔のことを言ってしまっていいのだろうか。それが沼入口というバス停のルーツなのか。
沼なき沼入口。大いなる矛盾。
しかしまだあきらめたわけではない。もうひとつ、とっておきのバス停をちゃんと調べてあるのだ。