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ちしきの金曜日
 
「活弁士」というお仕事

師匠はポルノ男優、そしてデビュー

活弁士を志した坂本少年がまず向かったのが、澤登翠さんが活弁士を務める無声映画興行を主催していた・マツダ映画社。当然のように断られるも、そこで活弁の研究会をやっているのを知り、とりあえず通うことに。

こんなフロックコートが似合うようになるのはずっと後の話。

 

「といっても養成所じゃなくて、普段はみんなで集まって練習して、年に一度発表会をする、という会なんです。会員の皆さんは社会人として、生業を別に持っていらした。でも僕は職業として活弁をやりたかったから、これだけじゃ食えないな〜と思ってたんですよね」

−−17歳にして仕事としてやる意識はあったんですね。

「そうですねぇ。まあ、一人が好きなんですよ。職業にすれば一人でやれるじゃないですか」

−−そんな理由で仕事にしたいって人はめったにいませんよ(笑)。

「その発表会で『鞍馬天狗』をやる事になって、それがきっかけで山本竜二さん(一般作からポルノまで幅広く活躍しているカルト俳優)と知り合うんです。活弁は『今からご覧に入れます映画は……』というような前説をするんですけれど、竜二さんが嵐寛寿郎(『鞍馬天狗』主演の戦前の大スター)の甥にして最後の弟子、という噂を聞いて、それなら会って色々取材したら前説のネタになるんじゃないかと思ったんです。それで竜二さんが出演するトークライブの楽屋に行って、お話を伺いました。以降、ご自宅へもちょくちょく遊びに行くようになったんです」

−−坂本さんは人嫌いって言うわりにはむちゃくちゃ行動的ですねぇ(笑)。それで師匠と仰ぐように。

「職種が違うので、活弁は習ってないです。ただ竜二さんは大叔父さんをはじめ親族一同芸能ファミリーで、京都の撮影所出身ですから時代劇の言葉使いとかは教わりましたし、あの人も職業の役者ということにプライド持っている人だから『趣味はいかん、商いにせぇ!』とよく言われました」

師匠から学んだのは仕事への姿勢、それと色々怪しい所に連れて行かれ、怪しい世界を覗いたこと。「それまで本当に世間知らずだったのが、竜二さんのお蔭で眼から鱗の日々でした。サブカルチャーの世界への扉を開けてくれたのも、竜二さんです」と当時を語る坂本さん。

−−それで活弁の仕事を実際にやるようになったのは?

「プロデビューといえるのは20歳の時。鶯谷に『東京キネマ倶楽部』というレストランシアターが出来るんです。活弁付きで無声映画を観ながら食事も楽しめる、というのが売りの。山崎バニラさんはその時の同期です」

−−でも、当時そんなに東京に活弁士を目指す人がいたわけでもないんですよね?

「そうです。毎日営業するのに演者の数が足りない。そこで『活弁やりませんか?』という募集をかけてオーディションを行い、僕を含め何人かの合格者をデビューさせた訳ですよ。もっとも僕は不始末起こして半年くらいでクビ。お店自体もその後、経営が大変だったりして……」

−−まぁレストランとしてはあまり続かなかった、と(現在は貸しホール)。

「でもデビューしちゃったんだから、とにかく仕事取らなくちゃ、ということで自分で勝手に営業し始めたわけです。最初はホームパーティの余興とかですよ。名画座で知り合った人の家でやらせてもらったり。その内、映画好きの方の息子さんで、市役所の市民文化係の課長さんがいて、映画の会みたいなのやりたいと。で、ありがとうございます是非やらせてくださいと。そうした仕事を少しずついただけるようになったんですよ」

−−今さら基礎的な話を聞きたいんですけど、活弁士ってどこまでが仕事なんですか?古典落語なら形が決まってたりするわけですが。

「活弁士は既成の映像の中に字幕があるので、その部分は大体その通りに読むんです。でも字幕と字幕の合間の映像部分の台詞は、自分で考えなきゃいけない。大筋はあるけれども、言い回しや言葉の選び方なんかはすべて自分の感覚ですね」

−−同じ話でも活弁士によって印象が違う。

「長い話だと特に活弁士個人の特徴が出ますね。クスグリ(ギャグ)を入れる人入れない人、淡々とやる人もいれば熱っぽく語る人もいます。喋り方も現代調、クサい感じ、さまざまです」

若い頃の坂本さん。若手感がにじみ出てます。

とりあえずデビューして仕事は増えてきた。ただひとつ活弁という仕事の複雑な点として「上映する作品を借りなければいけない」というのがある。仕事する際に出演料に加えてフィルム代がどうしてもかかる。お笑いのように身ひとつというわけにはいかないのだ。

それに既存の作品に声をつけるだけでは、自分の個性を出すというのも難しい。そんな時に別の同業者の存在を知る。

「自作の映画に活弁をつけるという山田広野さんですよ。『どんなネタをかけるんだろう』と思い、ワンマンライブを観に行ったらこれが面白くて……反面、悔しくて。初めて同じ世界でライバル心を感じましたね。まだ何もしてないんだけど、こっちは(笑)」

−−とはいえ「こういうやり方もあるか!」と。

「そう。でもそれから広野さんとは仲良くなりました。広野さんは六歳上だし、カリカリしている僕なんかより余程大人でしたね。『一緒にリリー・フランキーさんのイベントに出ましょう』って誘ってくれたりして。じゃあ僕も新機軸の活弁をと考えて、古い日本映画のMAD(既存の作品を繋ぎ合わせて全く別のストーリーにした作品)を作り、活弁をつけてたんですよ。ただそういうネタだと表には出せないんですよね、他人様の映画なんだから。相変わらず暗中模索していた24歳の時、ひょんなことからアニメ編集ソフト一式入ったパソコンを手に入れたんです。『そうだ。昔、水木先生に憧れて漫画ばかり描いていたことだし、一つ自作のアニメをやってみよう』と思い立ちました」

−−そこから例の『サザザさん』に。でもその前にも作ってるんですよね?

「試作品のつもりで作ったのが『桃太郎』というやつで。今観ると恥ずかしいです」

−−僕も最初はアレが東京ファンタスティック映画祭で話題になったので坂本さんの存在を知りましたね。

「あれからもう今日に至る、って感じですね」

駆け足で振り返る「坂本頼光物語」、てな感じですが次ページでは活弁の今を聞いてみますよ。

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