事の発端は香川県高松市のHPを見たことから。
石の名産地である庵治町牟礼町にはさまざまな石の彫刻作品があり、なかでも「生きる」という作品が印象的だった。
これはなんだろう?と思うもやもやした物体に「生きる」。有無を言わさずなるほどそうか、と思わせる説得力がその名にあった。
「生きる」と名付ければなんでも芸術作品になるかもしれない。
偉大な彫刻作品からまちがった知恵を盗み取った僕は、街に出て何でも「生きる」と名付けることにした。
(大北 栄人)
キャプションを作る
なんでも美術作品にする、といってもどうすればいいのだろう。美術館の展示を思い出してみると作品と白いカード、立入禁止のロープはあったりなかったり。
じゃあその白いカード、キャプションを作ろうと思って簡単に作った。作者は自分、作品名はもちろん「生きる」で制作年と、所蔵者はあれば格好がつくので「DPZ美術館」というウソの美術館にした。
ここまではまあいい。
キャプションがよぼよぼ
さあ左の出来上がったものをご覧いただこう。こういうところをぬかると後々ひびく。そしてぬかってもちろんひびいた。
どうしてぬかったのか。パネルをカットする際、カッターを使うが、それは文房具屋のおばあちゃんが私はこれを使うよと言ってた500円のカッターで、まあここまではいい。問題はその後だ。
定規を使わず、フリーハンドで線をカットしてしまったのだ。そしてなぜ定規を使わなかったのかの理由もおそろしい。
ただなんとなく、なのだ。ギャーッ!
色々なものにキャプションをつけてみよう
ともかくはできたのだから外に出て色々なもののそばにキャプションを置いてみる。お、変な石。置いてみよう。
だがいざキャプションを置いてみようとすると躊躇してしまう。なぜだ?作者名が実名で入っているからだろうか。傍から見て一発で理解できそうなことだからだろうか。
わからない。しかしこの躊躇はいつまでも続いた。
作品No.1「生きる」
角の黄色い石も「生きる」と名付けるとなるほどやるなと思わせる風格が出てきた。
私たちは石のように重く、固く、それでいて表面上は突拍子もない色で塗り固めて自己アピールしているのである。
なんでこんなものを置いているのかわからなかった角の石に人生を教えられた。のっけからいい調子だが、教えられた気になっているだけでもある。
作品No.2「生きる」
見慣れた電話ボックスも「生きる」と名付けることによってさまざまなドラマが見えてきた。
ここで奥さんが産気づいたと救急車を呼んだ旦那さんもいることだろう。無限のテレカで祖国と無限の連絡をとった人もいることだろう。
みんな生きている。生きているんだよなあ。「生きる」と名付けるとどうもこの「だよなあ感」が出てしかたがない。
石川が選ぶ今日の「生きる」第5位
なるほど、深読みですね。実情はちょっとちがうんです、これは食べるのに夢中になって「あ!写真撮らなきゃ!」となった時点がこの時なんです。 食いしん坊にブレーキがかかった時点が「生きる」。
作品No.4「生きる」
おもしろい形をしているもの。企画の発端となった石の彫刻のように、そういったものが「生きる」にハマってくれると今日は成功だろう。
迷路のような遊具。そう、人生は迷路。
冗談にしても書いてはいけない文章というのが世の中にはあるが、今僕はとんでもないミスを犯したような気がする。
恥ずかしさで死んでしまわないように、ひも状のものをできるだけ遠くにやって今日は人生を語ることにする。
作品No.5「生きる」
また「生きる」か。だが今日はどこまでいっても「生きる」なのだ。
この土の「生きる」は存外しっくりきた。土中にいる微生物が見えるようだ。こんないいかげんな場所の土でさえ、「生きる」の芸術作品になるのだ。今日は怖いものなしじゃないか。
と、思ったところでさっきの「そう、人生は迷路」を思い出した。「あれはなし!」と思わず声を上げたが、なしではない。現にすぐそこにある一文だ。
石川が選ぶ今日の「生きる」第3位(ばらばらに発表)
なるほど、よく見るとたくさんの生命がありますね。