心が乱れ始める
動物園を越えて二股の道に差し掛かったので停車し、相棒の振り子を再び取り出した。この二股は右でどうでしょう
ぶんぶんぶん(いいですよー)
ふと思いついてもう1つ質問してみた。左はどうでしょう
ぶんぶんぶん(あ、それもいいですねー)
やっぱりそうだ、こいつ、無関係に回ってやがる。なんだかいつでもイエスに振れるのが薄々おかしいなとは思っていたのだ。
もういいや、帰ろう。
ワニヤ、見つからず
それで結局ワニヤってどこだったんだろう。帰路に就きながら考えた。もし僕が逆の立場だったらどうしていただろう、と。たぶん千葉とかメキシコとか、そういうところの地名をこっそりと指定していたんじゃないか。いやたぶんそうする。そう考えると見つからなくても当然じゃないか。
家に帰る途中でコンタクトが飛んだのだけど、必死で探したら見つかった。ここにきて小さな奇跡だ。だけど今思えばあの時振り子を振って見つけようとは思いも付かなかった。僕の中にダウジングへの不信感が芽生えてしまっていたのだ。
衝撃の事実が
家に帰って妻にワニヤの正体を聞いてみた。そしたら驚いた。ワニヤは和仁屋という交差点で、地図を見るとなんとすぐ近くまで行っていたのだ。
僕は動物園を越えてしばらく走ってから、振り子が何に対しても振れているんじゃないかという疑いを持って不信感を募らせ、失意の元帰路についた。
実はその先をしばらく行くと和仁屋だった。
敗因は振り子を信用しきれなかった僕にある。しかしそうなってくるとこれ、信じていたら実はかなりの精度なのではないか。
潜在意識の成す技なのか
そういえば僕がまったく知らない場所を指定してくれと妻に頼んだとき、だけど1日で行って帰ってこれる範囲でね、と付け加えていた。行く先々の交差点で振り子を振ったとしても、沖縄市あたりならば十分帰ってくることができる。もしかしたら僕は頭の片隅でそう推理していたのかもしれない。その思いが沖縄市付近で振り子をゆすったのではないか。
真相は闇の中だが、確かにダウジングは僕を和仁屋に向かわせた。やらせでもいんちきでもなく本当の話だ。この時使った水晶の振り子は今でも僕のカバンの中に入っている。いつか何かに迷うことがあれば取り出して振りたいと思っています。