「手作り/マスプロダクツ」の彼岸
ぼくは大学で工学部に所属していた。勤めていた会社はメーカーだった。そんなぼくがいちばん嫌いな言いぐさが「大量生産品にはない、手作りならではのひとつひとつちがう表情をもった…云々」というやつだ。
あのなあ、おまえちょっとそこに座れ。おまえは金型設計と歩留まりのコントロール、および職人技との両方ともに関してなにも分かっちゃいない!というかぼくは誰に向かって憤っているのか!
大量生産品はみんな同じで手作りはそうではない、というのは大きな勘違いなのだ。ラインで作られるものは、放っておくとみんな違ってきちゃう。バラツキというものは避けられない。コストとのせめぎ合いの中で、いかに同じモノを作るかに腐心するのが大量にモノを作るということなのだ。
一方、真の職人技とは、大量生産品ではとうていできない精度で「まったく同じモノを作れる」ことなのだ。それができない職人は職人ではない。わかったか。
だからぼくは誰に向かって説教しているのか。
で、なにが言いたいのかというと、100均のフリーダムはこの「大量生産品/手作り:同じ/違う」という次元を超越するのだ。まさにフリーダム。たとえば内海さんおすすめの、これ。
どうだろうか、このまごうことなき「一点一点ちがう表情」。表情が違うというより、もはや別の製品だ。どうやって製造されているのか知らないが、100均という場で売られる以上、大量生産品といっていいだろう。それでもなおかつこの「職人」技。
ぼくが工学で学んだ常識では、ばらつきすぎでNGになるはずの商品がこうして愛らしく存在している。気に入った個体を選ぶ喜びがある。愛着もわこうというものだ。
「こういうのを『作り手の顔が見える』っていうんだよね」
いや、どうかな。
「あの野菜とかについている『私が作りました』っていうあれ、あれは100均商品にもつけたらいいと思う」
…いや、どうかな。
冒頭の「瓶にサイコロ」があった!「ねえ、どれにする?」
「だってほら、一個一個違うからね」