僕が高校生のときの話だが、通学時に自転車で盛大にすっ転んだにもかかわらず全く痛みを感じないという不思議な出来事があった。
痛みを感じなかった理由は、そこに女子高生がいて、転ぶ様子を見られたことがとても恥ずかしかったからだろうと思う。
女子高生の視線は痛みをも消し去るのだ。
人体の神秘ともいえる、この現象を今あらためて検証したいと思う。(藤原 浩一)
痛みの優先順位
人生の危機を感じた瞬間を投稿するサイト「ピンチなう!」に、以下のような投稿をした。
転んだ原因は、以前に使っていた自転車のブレーキが甘かったので、ブレーキを強く握る癖がついていたからだ。
同じ感覚で新品の自転車のブレーキを強く握ったら、まるで地面とくっついたかのように「キュッ」と前輪が静止し、残った勢いで僕は激しく転んだ。
もちろん僕は無傷であったはずがないのだが、痛みの記憶はない。でも代わりに女子高生の記憶がある。
男子校に通う僕の中で、女子高生に現場を見られていた恥ずかしさが、転んだ痛みを凌駕したのだ。
脳内では痛みに対する処理よりも、女子高生の視線に対する処理を優先させるよう僕に命令し続けた。僕は急いでその場を立ち去り、学校へ逃げた。
これが僕のピンチの瞬間だったのだが、それに対してこのようなアドバイスを頂いた。
新品の自転車の行く末よりも女子高生の視線が気になるあたり、すばらしいエロパワーを感じます。持って生まれたその才能を生かし、歯医者など痛みに耐える場面には、女子高生を同伴させるとよいでしょう。
「女子高生がいれば痛くないのか」
大変興味深いテーマだ。「痛み」という極めて本能的な感覚を、女子高生(の視線)という社会的な観念が麻痺させてしまうのだろうか。女子高生の新しい存在価値である。
頂いたアドバイスでは痛い体験の例として歯医者が挙げられているが、特に治療すべき歯もないので、今回は自前の痛み体験セットを用意しよう。というわけで実験のために、とある公園へ向かった。
女子高生登場
空も青く晴れ渡り、いよいよ夏の到来を感じさせる清々しい気候だ。休日の午後、公園にはそれぞれの人が、それぞれの時間を過ごしていた。
我々も我々の時間を過ごさせていただこう。
女子高生の登場である。
この二人が今日の実験を手伝ってもらう地元の女子高生だ。しかも双子である。
運動部の部活帰りだそうだ。明らかに若々しさとエネルギーを感じる。
女子高生と接触する機会なんて一生のうちにもうないと諦めていたので、運に恵まれている……と言いたいところだが、「女性」で「高校生」で「運動部」、この3点で、会話するまでもなく既に引け目というか恥ずかしさを感じている。しかも双子。
女子高生の視線が生み出すこの感覚は、痛みをなくしてくれるのだろうか。いよいよ実験だ。