●かすかな光を求めて
半ばやぶれかぶれな気持ちでいた中、ふらっと入った店で見つけたのはこんな栗菓子だった。
先ほど同様、いわゆる栗まんじゅうだろうが、栗まん栗まん栗まん…と、省略された商品名を何度も心の中で繰り返していると思春期のおかしな気持ちがよみがえってくる。
ツートーンの栗っぽさは愛らしいのだが、私はそういうビジュアル面に何度も裏切られてきた。思わず目を背ける。
もうどうにでもしてくれ。やけくそ気味に食べてみる。
香ばしい皮と、ほろっと優しく崩れていく中身。二つの味わいが一体化していく趣きを味わいつつ、愛らしいあの木の実を心に描いてみる。するとどうだろう、遠くの一点がだんだん大きくなってくるように栗の味が……。
するかも!
おお、これはするかもしれない。栗らしき味と食感とを感じるではないか。
よくよく中身を見てみると、餡とおぼしきものの中に、栗の欠片のようなものが顔をのぞかせているではないか。これは栗だろう、ついに栗だろう。
思わず興奮するが、本当にそうだろうか。これまで何度も傷ついてきた自分ゆえ、信じ切ることができないのだ。
実際どうなのだろうか。包みを見てみる。
原材料名の最初に「栗あん」と書いてある。栗あん…。
これまた微妙な表記。個人的には初めて聞く言葉。はっきり「栗」と書いてない。またも深まった謎。さっき見たのはきっと栗だと信じたいが、確信までには至らない。
自信を持って、それが栗だと思いたい。そう思って包み紙に書いてあったお客様相談センターに問い合わせてみた。
やった、ついにお墨付きをもらえた栗。疑ってすまなかった、君はまぎれもなく栗だ。おめでとう、私もうれしい。栗あんに入っているのは、栗なのだ。
●信じることの大切さ
信じることと疑うこととの間にあった栗。ついに出会えた。
あからさまにゴロッとしている栗ももちろん魅力的だが、密やかにその魅力を表現している栗もまた栗だ。奥ゆかしさゆえの味わいがそこにある。
日々の暮らしの中で栗菓子なるものを食べる私たち。ただ、そこに栗があるかどうかを考えずにいることが多い。
そこで立ち止まってほしい。もう一度考えてほしい。
栗のあるなし自体が最も大切なことではない。栗の有無を自分の頭で考え、意識することこそが大事なのだと思う。