コラボ企画 2013年11月25日

身近にある20周年を思う

応対してくれたのは、首都高速道路の並川賢治さん
応対してくれたのは、首都高速道路の並川賢治さん
──20年前の建設当時、並川さんのご担当は?

「レインボーブリッジの設計部門にいました。橋梁全体の安全性とか信頼性などをチェックしたり、図面を描いたりする、デスクと現場の間を橋渡しする部門です」


──あ、橋だけに。当時、何歳でしたか?

「20代後半でした。入社5年目くらい。プロジェクトには90年~93年までの約4年間関わっていましたね。私は施工がはじまって間もない頃、土台をつくりはじめている時に参加したという感じです。なので、私が入った時には橋の種類や工法、デザインなどはほぼ決まっていた。私の役割としては、それらのイメージを着実に構造物として形にしていくことでした」
建設がスタートしたのは1990年。ちょうどバブル真っただ中だ
建設がスタートしたのは1990年。ちょうどバブル真っただ中だ
──入社5年目の身としては、かなり大きな仕事だったんじゃないですか?

「そうですね。確かに当時の自分としては入社以来のもっとも大きな仕事だったかもしれません。このプロジェクトは、橋梁メーカーやゼネコンなど周囲の仕事相手も一流の人間ばかりでした。対して、自分は若く、経験も知識もまだまだ。一流の人間の話を理解するために、とにかく勉強して、がむしゃらに食らいついていきました。この仕事は、自分をそうとう鍛えてくれたと思います」
羽田空港に近いため高さ制限があったり、航路の幅をとる必要があったりと、色々制限の多い現場だったようだ
羽田空港に近いため高さ制限があったり、航路の幅をとる必要があったりと、色々制限の多い現場だったようだ
──遊びたいとは思わなかったですか? 世の中はバブルでしたよね。

「とにかく仕事ばっかりでしたね。でも、おもしろかったですよ。現場の近くに『ジュリアナ東京』があって、工事の立ち合いに行った時、橋梁の上で監督していたら、夜中の2時くらいに下の倉庫街でボディコンのお姉さんがうろうろしているんですよ。下は随分と賑やかだなと思いながら、橋桁の上でこっちは仕事してて。良い悪いは別として、なんだか楽しい時代でしたよね」

もうひと息だ。がんばれ!
もうひと息だ。がんばれ!
──完成の日はどこにいましたか?

「橋は8月に完成したんですが、じつは自分は直前の5月に異動していて、完成時は本社にいました。だから、現場にはいなかったんですよ。でも、時間通りに開通したということを聞いて、やっぱり感慨無量だったですね。同時に、自分の娘を嫁に出すような、自分の手から離れていくような寂しい気持ちも少しありました」
完成間近の橋を祝福するような花火大会
完成間近の橋を祝福するような花火大会
──開通時に現場にいられないのは悔しいのでは?

「でも、現場にいても、橋をゆっくり見て感慨にふけるようなヒマはなかったと思います。その頃は開通式典に出られるような立場でもないですし、現場の若い社員は、並んでいる車の交通整理の手助けをしたりとか、そういう作業に駆り出されてけっこう大変なんです。特にあの日は大雨でしたから、現場にいた社員は本当に大変だったと思います。私は社内にいて、申し訳ないなと思いながら」

ちなみに「レインボーブリッジ」という名前は公募で決められたそう
ちなみに「レインボーブリッジ」という名前は公募で決められたそう
──20年経っても、自分が作った橋はやっぱり気になりますか?

「そうですね。しょっちゅう足を運びます。千葉にある妻の実家に行く時なんかは、本当は7号線で行くほうが近いんですけど、わざわざレインボーブリッジ経由で湾岸線を通っていきますよ。遠回りになるけど、ちょっと見に行こうかって。特に、自分で形を決めたところは10年経っても20年経っても気になるもの。そこを車まで通行する度に、つい目がいってしまいます。ちなみにアンカレイジ(※)の外装デザインは私が決めました」

※吊り橋のケーブルを定着させるための重いブロック
「今でもつい、足を運んでしまいます」
「今でもつい、足を運んでしまいます」
着工時の図面。当時としては画期的な技術も数多く採用されている
着工時の図面。当時としては画期的な技術も数多く採用されている
並川さんが外装デザインを決めたアンカレイジ
並川さんが外装デザインを決めたアンカレイジ
工事が節目を迎える度に、みんなでお祝いをして英気を養ったという。「余裕のある時代だったんでしょうね。色んな意味で」と並川さん
工事が節目を迎える度に、みんなでお祝いをして英気を養ったという。「余裕のある時代だったんでしょうね。色んな意味で」と並川さん
ちなみにこのレインボーブリッジ、当時としては画期的な技術や工法がいくつも採用された、先進的な橋だったようだ。たとえば、現場は海中の地盤が緩く、海底の奥深くまで基礎を掘削して沈める必要があった。海中で地盤を掘る作業室の気圧は人体が耐えられるレベルを超えていたため、機械による遠隔操作技術を採用している。現在では海底におけるこうした無人化工事は確立されているが、当時としては最先端の技術だったようだ。

年末年始限定のレインボーカラー
年末年始限定のレインボーカラー
いまでは観光名所としてもすっかりおなじみになったレインボーブリッジ。その裏には様々な物語があったのだ。
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