さまざまな重ね例を見ているうちに、自分でも何かを重ねたくなってきた。そういえば最近、ものを重ねるってことを意識してやっていない。
まあ重ねるというのは別に意識してやるものでもないだろう。だからこそ、純粋に重ねるということだけ目的としたことに取り組んでみたくもなる。今回は手軽さを考慮しつつ、そびえ立つ高さへの期待を込め、ふ菓子を重ねてみることにした。日ごろから努力を重ねるといった類のことは苦手だが、ふ菓子なら着実に重ねていけそうな自信はある。
●清められていく心
ふ菓子を1本ずつ手に取り、キャンプファイヤーの木組みの要領で重ねていく。一体何のためにこんなことをしているのだろうという疑問を持たないことがコツだ。 はじめのうちこそはふざけ半分という気持ちがなかったわけではないが、段々と高くなっていく塔に真摯さが自然とこもっていく。思いを込めて重ねるふ菓子。重ねるという行為には、人の気持ちを清めるような効果があるのかもしれない。
●ついにその瞬間が
重ね始めてみてわかった意外な安定感。その余裕が裏目に出たのか、重ねていくうちに自然と後に反り始めていった。まずいとわかっていても、もう手をつけられない斜め具合。 そして54本目を重ねた瞬間、スローモーションで倒れはじめたタワー。 もう少し伸びがほしかったと思う気持ちもあるが、残念さよりも先立ったのはさわやかさだった。こんな気持ちになったのは久しぶりだ。
重なってるってすばらしい
普段目にするさまざまな重なりシーンを改めて見てきた今回の試み。重なってるものを前にして何か言いたくなるのだが、結局「重なってるよなあ」としか言えない自分がいた。
迫り来る感動も当たり前のことしか言わせてくれない。それが本物が本物たる所以である。
……無理やり書いた言葉はやはり空回りしているような気がする。理屈はともかく、これからも純な気持ちで重なっているものたちを見守っていきたいと思う。