人は「亀頭」という言葉を聞いて、何を頭に思い浮かべるだろうか。
多くの人は「アレしかないだろう」と言うかもしれない。でもちょっと待ってほしい、「亀の頭」と書いて亀頭である。いやらしいことなど何もないではないか。
いつの間にか特別な意味ばかりが込められるようになった亀頭。それでいいのか。
別にいいかとも思いつつ、原点に帰るべく実際に亀頭をなでまわしてみました。
(text by 小野 法師丸)
●リアル亀頭にコンタクト
亀の頭をなでまわしたい。そんな衝動的な思いが湧いてきたのはいいのだが、亀なんて飼ってない。さすがにそんな気持ちだけで亀を飼うつもりもない。でもやっぱりなでまわしたい。
行き場のない思いを胸に抱える日々。そんなとき、知人から実は亀を飼っているという話を聞いた。
ばっちりと亀である。両手で抱えなくては持てないような大きさの亀なのだが、もともとはよく縁日で売っているようなちっちゃいミドリガメだったらしい。こんなに大きくなるものなのか。
正式な名前は「ミシシッピアカミミガメ」とのこと。確かにもはやミドリではない。
手足と頭をひっこめた状態もそれはそれで亀っぽい。ちみなに知人は2匹の亀を飼っていてそれぞれ名前がついているのだが、私にはどちらがどちらなのか見分けがつかない。
見分ける努力はやめておいて、記事中では「亀」で統一させていただきたいと思う。
亀をじっくり眺めていると、頭を出したりひっこめたりする様子が見られる。写真はひっこめた状態での一枚、頭のまわりに余った皮がたるんでいるのが確認できるだろうか。
胸に去来するさまざまな思い。できるだけ余計なことは考えずに亀と接したいのだが。
●亀頭のポテンシャル
今回の観察でスポットライトをあてるのはトータルとしての亀ではなく、あくまで頭。じっくりと見つめることによって、その潜在能力を見極めてみたい。
別に何もしていないのに、急にニョキーンと伸び上がる亀頭。何か亀なりの理由があるのかもしれないが、見ている私には知る由もない。無意味に屹立しているようにしか見えない。
ただ、それは決して亀を責めて言っているのではない。そういうことがあってもいいと思う。
しかし、亀頭はいつも意味なくそうなるばかりなのではない。ちゃんとした目的がある場合もあるのだ。
エサを目の前にやってみると、かなりアグレッシブに食いついてくる。普段はのんびりしているようでも、やるときはやる。亀にもそういう気持ちの切り替えがあるのだと思う。
ただ、積極的なのはいいが無節操なのはどうかとも思う。入れ過ぎ感あふれる亀の口、実際このあと食べきれずにボトボトとちぎれたバナナをだらしなく落としていた。
しっかりしなきゃと亀を見て新たに思う。亀から学ぶべきことは意外と多いのだ。
●そしてなでまわす
次々と様相を変化させる亀の頭。やはり見ているだけでは物足りなくなってきた。もうがまんできない、この手で亀頭をさわってみたい。思う存分なでまわしたい。
しかしどうだろう、身を守ることに長けている亀、簡単に頭などさわらせてもらえるものだろうか。
予想に反してグイーンと伸びてきた。警戒することなく、自由な感じで出てくる亀頭。危険を察することよりも、好奇心を抑えることができないでいるようだ。
嫌がられたりしたら悲しいと思っていたのだが、表情からすると亀としても悪い感じではないように見える。今回はあまりハードにしごくのではなく、あくまでソフトになでまわしたのも功を奏したのかもしれない。
趣向を変えて下からもチロチロとなで上げてみた。こっちもなかなかよさそうな表情をしている。やはり単調になでまわすだけでなく、いろいろと変化をつけてみるのもいいようだ。
うん、そうだよねと亀に共感。頭の上は骨があるのか硬い感触なのだが、下の方はぷよぷよとしていてやわらかい。
●そして思いは遂げられた
思っていたよりもフレンドリーに接してくれた亀。今も指先によみがえる、本物の亀頭の感触。頭頂部の硬さと下部のやわらかさのコントラスト。
亀の頭をなでまわしただけなのに、胸に湧き上がるこの満足感はなんだろう。
流行りの言葉で言えば「癒し」だろうか。ハーブティーやアロマセラピーでは満たされない大人の癒しが亀頭にはある。癒しも人それぞれだ。
仕事で疲れ果てて帰った夜、思いが相手に伝わらなくて悲しい夜、そこに亀がいるのならばそっと頭をなでまわしてみるのもいいと思う。
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