ひとくくりに「ゴミ」と言ってしてしまうにはもったいないゴミがある。ゴミだけど捨てられない、ゴミだけどなんかいい、そんな「いいゴミ」と呼ばれるゴミたちである。
ゴミなのに「いい」とはこれいかに。見ていきたい。
(安藤 昌教)
子どもの頃、鉛筆削りから出てくる薄くてくるっとカールした木の削り屑が大好きだった。
ゴミだと認識はしていたが、捨てるのがなんだかしのびなくて、お菓子の缶にためていつかそこでハムスターを飼おうと思っていた(結局親にばれて捨てられた)。
そんな思い出を胸に大人になった今考えてみる。ゴミはゴミでも「いいゴミ」というのも存在するんじゃないか、と。大人だから親に捨てられることもないはずだ。
たとえばこれはどうだろう。道に落ちていたみかんである。しかも腐ってる。
これはどう見てもゴミである。しかも「いいゴミ」ではない。持ってかえりたくならないからだ。
ではこれはどうだ。
金属の削り屑である。屑というくらいだから、まあゴミと言って間違いないだろう。
だけど見てくれこの「いいもの感」。会社にあった簡易スタジオ使って撮ったから、というのもあるかと思うが、それ以前にゴミとしての育ちのよさ、ごまかしきれない「いいもの」具合が透けて見えはしないか。 こんなの落ちてたらまず拾うだろう。ゴミなのに、持ってかえるだろう。
そう、これは「いいゴミ」だからだ。
実はこのいいゴミ、スカイツリーのふもとでもらってきた。
スカイツリーを臨む墨田区。このあたりには昔ながらの町工場がたくさんある。
オートメーション化された大規模工場よりも、こういうところで長年培われた職人の技が産み出すゴミの方が、魂のこもった「いいゴミ」な気がする。
こちら昭和金属さんは、このあたりの工場から出た金属ゴミを一手に回収している。
お願いしてゴミの一部を見せてもらった。
…宝の山である。
この工場では主にしんちゅうの切削屑を集めているという。しんちゅうはゴミであっても1キロ500円以上するらしく、そうなってくるとすでにゴミではないのかもしれない。
しかしその割りに「少しでいいので売ってもらえませんか」と聞くと「いいよ、勝手に持ってって!」と太っ腹にビニール袋までくれた。やっぱりゴミなのかもしれない。
ここでいただいたのが先に載せたしんちゅうのらせんである。金属を削った時に出る「いいゴミ」だ。
ゴミに見とれていると、今でも職人さんが手で削っているという工場を紹介してくれた。そこではまさに「いいゴミ」が産み出されているはずである。
さあ、いいゴミ誕生の瞬間を見に行ってみよう。