いつの時代も男女間の好きだ嫌いだの話は絶えない。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」を読んでいてもそういう話が載っている。興味深いのはこの「吾妻鏡」には惚れ薬の記述が僅かだけれどあることだ。
惚れ薬とは恋愛感情を起こさせる薬のことだ。 「吾妻鏡」によると鎌倉時代の鎌倉にそういった薬があったそうだ。
現代には伝わっていないその惚れ薬ではあるが、僅かな文献を頼りに作ってみたいと思う。
(地主 恵亮)
比企一族に伝わった惚れ薬
神奈川県は鎌倉市に源頼朝により設立された鎌倉幕府。僕らの世代で言えば「1192(いい国)作ろう鎌倉幕府」で覚えさせられたと思う。この鎌倉幕府の2代目将軍が源頼家である。そして、頼家の後ろ盾に比企能員という人物がいる。この比企能員を筆頭とする比企一族には「惚れ薬」が伝わっていたと歴史書「吾妻鏡」に僅かに記述がある。
何でもこの比企の惚れ薬は大変な効果があったそうだけれど、その存在の記述は少なく現代には伝わっていない。もともと比企一族でも一部でしか知られていなかったこともあるが、北条時政の謀略「比企能員の変」が起こり比企一族が滅亡してしまったことが、現代にその惚れ薬が伝わっていない最大の理由だ。
比企一族は先に書いた「比企能員の変」で滅亡したが、比企能員の孫にあたる信光だけが実は九州に逃げ延びている。これは現在の福岡に伝わる伝説の一つだ。なぜ彼だけが逃げ延びれたか?そこに比企の惚れ薬が登場するわけだ。
彼だけが逃げ延びれたのは、北条時政の娘と恋仲だったからだ。本来、敵同士であり恋仲になるはずが無い二人が恋仲になったのは、政治的な理由で信光が比企の惚れ薬を使っていたためだ。そのため事件が起きた際、彼女の手回しにより彼だけが命からがら逃げ延びれたわけだ。しかし、信光がその後歴史の表舞台に出ることは無く惚れ薬の伝書もここで途切れてしまったわけだ。
そんな惚れ薬の作り方がなぜわかるかと言うと、平安時代に成立した「梁塵秘抄」にヒントがある。この「梁塵秘抄」は平安時代の貴族の風俗を歌にした歌集なのだけれど、この中に惚れ薬についたの記述がやっぱり少しだけあるのだ。比企一族は平安の上流階級だったので、この惚れ薬と比企の惚れ薬は同じものと言うのが最近の研究者の定説となっているわけだ。
その定説に従って比企の惚れ薬を作る!
比企の惚れ薬は鎌倉連山に生える「鷽駄世草」が使われている。昔はどこにでも生えている草だったけれど、どういう理由なのかいつの時代からか鎌倉を中心に生える草になっていた。これも比企の惚れ薬が世間に知られることが無かった理由の一つだ。
僕は福岡出身なので九州に逃げた信光の伝説を知っていた。逃げ延びれた理由には惚れ薬があるのよ、と言う口頭伝承もあり、近所のおばあさんから小学生の頃にその話を聞いた事もある(地域学習で聞かされた)。きっとこの惚れ薬には本当に効果があるのだと思う。
花を求めて
鎌倉の山々は意外と険しい。今回は「鷽駄世草」を求めて連山の一つ鎌倉山に登るわけだけれど、軽装で来てしまったことを登り始めてすぐに後悔してしまった。想像以上に険しいのだ。
鎌倉山は天狗伝説や計賛寺や光明寺などがあり、特に計賛寺の阿弥陀如来などは全国的に有名だけれど、鎌倉の一般的な観光スポットとは離れているために、登っている最中に人にすれ違うことはほとんど無かった。そのためどこか心細く感じる。
登り始めて2時間ほどしてようやくお目当ての「鷽駄世草」を見つけた。知らなければ見落としてしまいそうな小さな草だ。今回は実験的に比企の惚れ薬を作るので一輪だけ拝借して家に戻ることにした。
作り方は簡単!
この惚れ薬は先に書いたように作り方が難しくて現代に伝わっていないわけではない。なので、作り方はとても簡単である。摘んできた「鷽駄世草」を沸騰したお鍋に入れ1時間弱火で煮込む。それだけだ。
その後、鷽駄世草ごと1週間ほど暗所に置いておけばよい。白い花とは裏腹に出来上がった惚れ薬はほんのりピンク色になっている。いかにも惚れ薬な感じだ。
後はこれを意中の人に飲ませればいいだけだ。飲ませるのは簡単で、ドラマなんかにあるように一緒に食事にでも行って、相手がトイレにでも行っている間にこそっと飲み物に入れればよい。信光はこれを北条時政の娘の食事係りに頼み、彼女が飲んだ直後に彼女の世話係に頼んでおいた恋文を渡させたそうだ。
効果は抜群ですよ!
こうして現代に蘇った比企の惚れ薬。ネットでも少数だけれど実際に作って試したという書き込みを見る。みな効果は抜群と書いている。僕も実際に使ってみたが、なんと彼女ができた。あまりの効果に驚いたくらいだ。全くモテ無かった僕にも彼女ができたのだ。あえて彼女の写真は載せないけれど、ぜひ試していただきたい。本当に比企の惚れ薬はすごい。誰でも簡単にできるのでぜひ!