体から厄を抜く
さて、大事なものや身の回りのものを落とすことで、いくらかの厄が落ちただろうか。そうなっている気がしなくもない。むしろそんな気がする。
だがここで基本に立ち返ってみると厄が宿っているのはこの僕自身である。
では僕自身を落として直接的に厄を取り除くのが、一番手っ取り早い方法なのではなかろうか。肉を切らせて骨を絶つ作戦である。
落とすのは無理だしケガをしそうなので、壁にぶつかってみた。
2mくらいしか勢いをつけてない体当たりなので、少し痛いだけだが、厄が抜けていく感じがする。厄を落とすのには痛みが伴うのである。こうすると厄がどこかへ消えていくということを信じたい自分がいた。
このような感じで体に衝撃を与えた(痛くない程度に)。
気のせいといわれればそうかもしれない。だが厄年やその他の風習すべてが気のせいから生まれたものではないだろうか。目には目を、気のせいには気のせいを。
こうすることで、だいぶ厄は消費されたのではないだろうか。予め自らが起こした災厄を被ることによって、未来の厄が減っているはずである。
人形に思い託して
最後に別の方法で厄を減らしてみよう。そう思って川原にやってきた。今度は厄を人形に託して川に流してしまおうという寸法である。
ひな祭りの人形は、もともと女の子の病気を人形に移して川に流してしまう「流し雛」だったというのは知られているかもしれないが、それと同じやり方だ。
紙の人形(ひとがた)だけだとすぐに沈んでしまいそうだったので、紙の舟の上に厄を孕んだ僕の人形を取り付けた。これに「どうか厄がどこかへ行ってくれますように」と願いを込めて川に流したい。
僕はそっと人形の乗った舟を水面に浮かせた。
舟は岸を離れる事なく座礁した。厄は流ず、こうして僕のもとへ戻ってきた。
おそらくだが、厄年じゃない人が同じことをやると、きっとすーっと優雅に舟は流れて行くのだろう。こうなるのもすべて僕が厄年だからなのだ。そう思う。
最後の「厄、総流し作戦」は失敗に終わったが、今年被るであろう災厄の一部分は今日の厄落としによって予め免れることができたはずだ。
年初のうちから、これから立ちはだかる困難を減ずることができた(という思い込みを手に入れた)ということは幸いである。
どんとこい厄
「厄も運のように限られている」というルールがあると、逆の見方もできるようになる。つまり、ひとつ災厄に合うと、ひとつ分の災厄に合わなくなるわけだ。
そう考えると厄い(ヤクい)目にはさっさとあっておくに限る。
ひどい目に合うことが実は幸せへと繋がる道なのだ、ということを今年厄年の人たちへのメッセージとしたいと思います。結果は今年が終わるまでは分かりませんが。