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ロマンの木曜日
 
「サラダ感覚」とはどういう感覚か
サラダ感覚とはなにか

「サラダ感覚」とは、いったいどんな感覚だろうか。

恐らくそれは「サラダのような感覚」である。

言い換えると、サラダではないがまるでサラダのような感覚ということになるだろう。
ということは、サラダは感覚の一種だということだ。

つまり、サラダとは概念なのだ。

(text by 工藤考浩



サラダ=生野菜ではない

まずはこのサラダをご覧いただきたい。
厚切りベーコンのシーザーサラダと書かれている。
表示の通り、厚くカットされたベーコンが入っていて、しっかりと食べ応えのあるサラダだった。
しかし、サラダという割には、野菜の分量がとても少ない。
ブロッコリと申し訳程度のレタスが入っているくらいで、メインはマカロニだ。
同じように、スパゲッティーサラダなど、サラダと呼ばれる食べ物の中にも、野菜をさほど含んでいないものが多く存在する。
一般的に「サラダ」という言葉から感じるのは、生野菜であるが、実際のところサラダ=生野菜ではないのである。


サラダとは野菜のことではない

概念化するサラダ

さらにはこの、じゃがりこ。
パッケージに「サラダ」と明記されている。
これ以外にも「サラダせんべい」など、サラダを標榜する食品がちまたにあふれているのは、みなさんもすでにお気づきのところだろう。
そして、多くの人がそれを「サラダ」として受け入れている。
すでに、「サラダ」は概念として一般化しているということがいえよう。


サラダと言い切る

サラダ感覚とは何か

では、概念としての「サラダ」とは、いったいどういうことか。
そして、日常の言葉として使われる「サラダ感覚」というのは、具体的にどういう感覚なのだろうか、検証していこう。

まずは次の写真。
高層ビルからの景色である。
これを「じゃがりこサラダ味」のパッケージに使われている色で着色してみよう。
写真が「サラダ感覚」になれば、サラダとは色であると考えるができる。


東京
こういうことではない

色ではない

ご覧のように、東京の景色が「サラダ感覚」になったといえないのは明白だ。

では次の写真。
つり革の写真にに生野菜の代表であるセロリを合成してみた。
これでつり革が「サラダ感覚」になれば、サラダとは野菜であると判断できよう。


つり革
こういうことでもない


野菜だけでもない

セロリ単体にドレッシングをかければサラダになるが、つり革とセロリでは、サラダ感覚にはならない。

では、野菜とドレッシングだろうか。
次にお見せするのは、ローストビーフに野菜とドレッシングがかけられた物だ。
これはサラダではない。
サラダ感覚という表現も正しくないだろう。


サラダ的だがサラダ感覚ではない

食べ物だけの概念だろうか

これまでの例で、「サラダ」という概念がとても限定的な物であるというのはおわかりいただけたと思う。

ここで、少し視点を変えてみよう。

上に例示した物のいくつかは、食べ物ではない。
食べ物ではないから「サラダ感覚」ではないと言い切れるだろうか。
答えはNOだ。
食べ物ではない「サラダ感覚」も存在する。

私事になるが先日、社内の面談が屋外であった。
会議室での面談では、内容が固くなってしまうため、外の空気を吸いながら話をしようという目的だ。
これぞ、「サラダ感覚」ではないだろうか。
密室の会議室に対して天気のいい公園での打合せ。
この時に感じるのが「サラダ感覚」なのである。



サラダ感覚の打合わせ

私の考えるサラダ感覚

サラダ感覚が食べ物以外にも当てはまるということに、共感していただけただろうか。
次のページからは、私が考えるサラダ感覚を、もう少し具体的に示して、理解を深めていただこう。



 

 
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