磨崖仏(まがいぶつ)という仏像がある。岩壁などに直接彫られた仏像だ。岩に彫られているので背中はそのまま山につながっていて、切り離してどこかへ移動させることができない。
これまでまったく気にしたことがなかったのだが実は近所にこの磨崖仏があることを知り、それで興味を持って他のものも見て回っているうちに好きになってしまいました。
今回はこの磨崖仏の魅力をみなさんにもわかってもらえたら、と思って紹介させていただく次第です(ちょっと弱気)。
(安藤昌教)
普通にある
まず下の写真を見てもらいたい。一見普通の崖だが、何か説明書きをした表示板が建てられている。
そう、これこそが磨崖仏なのだ。家の結構近くにあって何度も前を通ったことがあるのだけれど、これが磨崖仏だってこと、実はこの表示板を読んで初めて知った。
こんな具合に、磨崖仏は岩肌に直接彫られているので時が経つと風化してしまうのだ。はかない。消えゆくはかなさ、そのはかなさがまた魅力的でもある。
磨崖仏は先の例のように、寺もなければ屋根もないようなところにふと存在していることが多い。他にも規模は小さいが壁に彫られた磨崖仏を見つけたので紹介したい。
ここは「朝比奈切り通し」といって、鎌倉時代に幕府まで物資を運ぶために山を切り開いた道。こういう道には当然いい岩がある。
あ、言い忘れましたが今回、たぶんそうとう地味です。だって仏像の話だからさ、派手にしようがないんです。
仏像、地味にたたずむ
両側を石の壁で囲まれたこの細い道にも磨崖仏がいる。
これを見つけたときにはかなりうれしかった。進行方向に向かって角度のない壁に彫られているので、振り向かないと見逃してしまうのだ。地図にも案内図にも載っていない、こういうマイナーな仏像を見つけたときが一番うれしい。
こんな具合に磨崖仏は特になんのアピールもなく、そしていつか雨風にさらされて消えていく運命にあるのにそれを気にとめる様子もなく、ただそこに存在しているのだ。
たぶん僕が見つけたもの以外にも、この一帯の岩には穴がたくさん掘られているのでその奥には磨崖仏があるのではないかと思う。なら覗けば、とお思いだろう、僕もそう思う。
だけど、怖いのだ、覗くの。
一人だぞ。たまに森の中から「ガサッ」って聞こえんだぞ。「ごめんなさい、ちょっと見たかっただけなんで!」って半笑いではすまされない空気なんだぞ。
すみません取り乱しました。とにかく、そういうことなので許してもらえませんか。
一人山道を歩いていて磨崖仏を見つけると、妙に「どきっ」とする。これはそこに人の「気持ち」みたいなものを感じるからだと思う。かつてこれを彫った人は、ここに彫るだけの理由があったから彫ったのだろう。たとえば旅の安全とか世の平和とか。
磨崖仏を掘った時の気持ちは時を越えてそこにあり続ける。それを想像することができるのも、磨崖仏の醍醐味といっていいのではないか。
どうだろうこのローキーな写真群とじいさんみたいな文章。別に疲れているわけではないのだが、だからといって「うっひょー」とかいってこの岩登っておにぎり食ってるところを自分撮りしたりしてもみんな引くだろう。なので今回はこのくらいの調子で通したい。
あ、でも最後にすっごいのが出てくるのでそれを期待して読み進めて下さい。