以前、知人と高校の時の話になって、「あまりに教科書が重いので単元ごとに引き裂いて持っていってた」と私が話したところ、予想外に反響があった。
この前実家に帰った折り、くだんの教科書がないか探したところ、他にもいろいろ当時の工夫のあとなど発掘できたので、ここに発表したい。「幼い頃書いた漢字」「実家の押入れにあった昔の恥ずかしい服」に続く、実家発掘3部作、完結(?)です。
(乙幡 啓子)
工夫その1:悲惨かおしゃれか わからないノート
当時使っていたノートが出てきた。が、しかしこれはどうなんだろう。
これ、余り紙を集めて穴を開けて、DCブランド系の服屋でもらったポスターを表紙にして綴じたノートだ。いや、別に普通のノートを買うのに窮するような家計状態でもなんでもなかったのだが。
「書くところがあるのにもったいないじゃないか!」という、モノ余り時代に反発する気持ちと、「このポスターを表紙にして手製のノートを作る奴なんていないだろ」という、変わったことしたい気持ちが入り混じっての作品だったのだと思う。女子高には得てしてそんな面倒な奴が発生しがちである。
工夫その2:引き裂かれた教科書
「引き裂かれた・・・」と書くとなんだか尾崎豊のような気分にもなるが、「この支配からの卒業」ではなく 「この重さからの逃避」が引き金になっている。
下の写真のとおり、中学・高校と上がっていくに従い、教科書というものは分厚く重くなっていくものだ。
この厚さが、月月火水木金金・・・間違えた、例えば1日6時限ある日に、「現・生・英・微・古・世」(現代国語、生物、英語、微分積分・古文・世界史)という、6つ全部違う授業だったりする場合にはどうなるか考えてみよ。
それら書類をカバンに入れ、電車に乗り、そこからさらに山奥の学校まで上り坂を20分自転車でゆく苦労を考えてみよ。
それで出した結論が、これだ。
中身を思い切って表紙から引き離し、単元ごとに引き裂いてホチキスで留めた。それだけでまあ軽い!まあ便利!
なので分厚い教科書は、ほとんどそうさせていただきました。が、弊害もある。
例えばその日に学習する予定の「第2編」を持っていったとしよう。が、授業で 「あー、この点については、じゃあ第1編の○○ページを読んでみよう、はい乙幡!」 と先生に言われてしまうと、手も足も出ない。
「すいません、そこ持ってきてません」 「なんでだー」 「ほら、このとおり」 「バコッ(頭をどつかれる音)」
まあ、いろいろあったが、私の高校時代のカバンの中身はこんな感じだったのだ。
次は、余談ではあるが、私が授業中に何をしていたかの痕跡をたどっていこう。